父の思い出

 授業で学生とやりとりをしていると、ときどきじれったくなることがある。おしえた動詞の形などがなかなか口から出てこないと、待てなくなってついついこちらが口を開いてしまう。
 学習者の発話を引き出すテクニックはいろいろあるのだが、気持ちに余裕がないときなどは、いきおい辛抱できなくなってしまう。気が短いほうではないつもりだが、こちらもいつも機嫌がいいわけではない。もちろん、学生の前では機嫌よくふるまうけれど、そんなときはダメ教師である。
 親譲りというほど際だって引き継いでいるわけではないとは思うが、僕の父はある状況においては、まったく短気でせっかちだった。
 家が農家だったので、僕は小さいころから農作業にかり出された。中学生ぐらいになると、戦力としてかなり期待されるようになったのだ。子どもの僕が稼いで親はさぼって酒浸りというような、なにも発展途上国の家内労働のような話しではない。単純に労働力が不足していたのである。
 そのころから農業の機械化が進み、我が家にも次々と新しい農機が導入されていった。父は、期待の星? であったかもしれない僕に、いろいろな機械の操作をそのつどおしえるのだが、そのおしえかたが、はっきりいえば下手なのである。
 農機は、すぐさま習得できるほど甘くはなく、少し慣れが必要だった。ところが、なかなか慣れさせてくれないのである。父は遠くから見ているのだが、僕の操る機械が挙動不審な動きをするとまたたく間に飛んできて、ひとくさり文句をいって奪い取っていくのである。そのつど、クソ親父と思ったものだ。
 父は家業とはべつに、農業畑のサラリーマン仕事を長年やってきていたので、農業に対する姿勢にはとりわけ厳しいものがあった。それは、今でこそ僕にもわかるが、その当時はただの偏屈親父に映った。
 記憶が芋づるのように出てきた。僕も連れ合いにパソコン操作をおしえるときに、そんなふるまいをしたような記憶がある。むろん喧嘩になったが。
 どうも身内では具合がわるいようである。客観性を欠き、冷静になれなくなってしまう。でも、父はどのみち職人肌の人だった。自分でやらないと気がすまないタチだった。
 そんな父が逝って丸6年。7回忌である。今日は、その父の命日なのである。<(_ _)>
(photo:D県の山奥の寺院にて)