もっと元気と勇気と感動を…
リオ・オリンピックも終盤である。これまでたくさんの「勇気をもらった」し、「元気をもらった」し、ときには「感動をもらった」。
もらいすぎだろう、と思うくらい日本人はここ2週間で、ずいぶん裕福になった。それはとてもいいことである。
でも、もうこの「もらった」という表現はやめにしませんか。
「勇気」は「出る」「出す」、あるいは「湧く」ものであり、もらうものではないだろう。また、「勇気づける/勇気づけられる」ならOKだろう。
「元気」のほうも「出る」「出す」、あるいは「元気づける/元気づけられる」ものだろう。
「出る」とか「出す」などというと、思わずドイツ語の定冠詞 der や das を思い出してしまう。学生時代に第2外国語としてかじったドイツ語などきれいさっぱり忘れてしまったが、なぜか暗唱した定冠詞は覚えている。ーーま、そんなことはどうでもいいですね。
そして「感動」に至っては、感動までもらってどうするんだ、というくらいその使い方に感動してしまう。いや、感動している場合ではないか。
かつて、ワンフレーズを連発したどこかの首相のように、「感動した!」が正しい使い方である。もらうものではないだろう。
「応援よろしくお願いします!」というフレーズを、スポーツ選手からよく聞く。
今では慢性化して聞き慣れてしまったが、よく考えると、甘えの構造が透けて見えるずうずうしいお願いではないだろうか。
そんなもんいわれんでも、応援するものはするし、したくないものはしないぜ、と、ひねくれて毒づきたくもなる。
イチローはいったことがないそうである。それはいわないと、はっきりいっている。さすがである。
しかし、元気はなかなか出なくなったし、勇気などとっくの昔に枯渇したし、感動に至っては鈍感力に浸食されてきたしなぁ。……ぼくのことである。(¨;)
(photo:寺地山の小さな湿原)