71年

 天童荒太の小説『悼む人』には、事件・事故の現場を訪ねて、亡くなった見ず知らずの犠牲者を悼む旅をする青年が主人公として登場する。
 彼は、旅先の現場ではむろん歓迎されず、不審者と見られたり、異常者あつかいされたりするのである。
 そんな奇異な旅をつづける理由はもちろんあるのだが、まったくの他人を悼む気持ちはぼくたちの心のなかにも存在する。
 それが、かつて自分の父親が加害者として関与した場合はどうか。
 子どもとしてはおそらく、親の負の遺産としてできるだけ忌避するのがふつうではないだろうか。
 そうしたところで、子どもが指弾されることもないだろうし、かえって同情されたりする場合も少なくないはずである。
 ところが、父親の負の所業を忌避することなく、むしろ積極的に向き合い関係先に出向き、犠牲者を「悼む旅」をつづけてきた人がいる。
 今上天皇である。
 もちろん一般人とはちがうし、天皇制という特殊な背景もあるが、そのことを承知したうえでも天皇を評価できるのである。
 皇后も同様である。悼む旅どころか、夫の怪しげな旅に嬉々として随行し、手をつないで政府専用機のタラップから降りる “第一夫人” とは真逆である。
 先日などは、沖縄の辺野古や高江に出かけ、周囲を困惑させていたようである。どうも夫同様、神経がロープのようである。……そんなところに感心していてもしかたがない。
 昨日は、終戦(敗戦)から71年だった。オバマやケリーが広島へ来て、オバマ政権の思い出づくりができたとはいえ、まあ、小さな一歩だった。
 しかし、あの戦争を始めた張本人たる日本政府が、これまで広島、長崎の人たちにちゃんと謝罪したことがあるのだろうか。
 ーーなどと、8月15日に思う。(-_-;)
(photo:ゴゼンタチバナ岐阜県寺地山にて)