加齢からの逃避
先日、プリンスが亡くなった。
プリンス、といっても洋楽に興味がない人は知らないかもしれないが、まあこれがどえらい才人なのである(あった)。常軌を逸した、といったほうがいいかもしれない。
少し前には、デビッド・ボウイやグレン・フライの訃報を聞いた。
デビッド・ボウイにはあまり親しまなかったが、グレン・フライはアメリカのイーグルスというバンドの牽引者で、20代の僕の傍らにはいつも彼らの楽曲が鳴っていた。
プリンスは享年57歳、デビッド・ボウイが69歳、グレン・フライは67歳だった。
3人ともロック・ポップス界では超セレブだが、今の先進国の平均寿命からすればずいぶん早死である。
才能が開花し名をなすとき、どこかで心身を酷使し無理をかさねていかないとトップスターの地位を獲得できないのではないか。ーーそれは想像に難くない。
同級生や同年代の死に直面するトシになったが、ロックスターという遠い別世界の人であっても、自分の日常を音楽をとおして彩ってくれたその存在は、友人知人同様身近である。
そういうなじみのスターたちはいつまでも活動的でカリスマである、という錯覚にいつしかおちいってしまうが、彼らの死を知ると時の流れを感じ立ち止まってしまう。
あこがれの女優がトイレに行くはずがない、というようなファン心理と同様、自分の勝手なイメージが固定してしまいがちになる。そしてあるとき、現実にもどるのである。
現実にもどれば、トシとったロックスターと合わせ鏡のように自分の衰えにも気づくのである。
フィットネスジムでときどきエクササイズに励んでいても、体力と運動能力を維持するためには多少過激にやらないと衰退の一途をたどる、ということも身にしみてわかるトシになったということだ。
しかしまたトシとともに、ケガや病気も影のようにつきまとうようになるから、しだいに逃げ道がなくなってくるのである。(__;)
(photo:えちぜん鉄道三国駅にて)