そうそう考えることもない「葬送」のこと

 町内会長をしていた去年は、朝いちに新聞のお悔やみ欄を見るのが日課だった。
 その点今年は肩の荷が下りた気はするが、後期中年者にもなると、ぼちぼち同級生や同年代の死に遭遇する。
 死は、生きているたいていの人にとって、できれば考えずに忌避したいことだろう。
 まだ死にたくはないし、死に際しての痛みや苦痛の恐怖、現世への未練、そしてまた死後の世界への不安もある。
 「終活」ということばが最近よく使われるようになった。社会構造が変化し家族や地域の関係性が変わってきたせいなのか、クローズアップされるようになった。
 自分の終い方は自分で決める、という思想である。日本人の思考がかなり自由になってきた、ともいえるだろう。
 宗教への帰属性が薄れてきたことも関係するが、人々が既存の葬送システムにとらわれなくなったからだろうか。
 日本人のある有名登山家は、こんなことをいっている。
 ーー葬儀はいらない。お経も不要。もちろん戒名など無用。家族以外に死に顔をさらさない。墓もいらない。少量の骨を好きな山に撒いてくれればいい。できれば少し後に「お別れ会」を開いてほしい。でもしんみりしたセレモニーにしないでほしい。
 有名人ならではとも思うが、お別れ会を別にすればとてもすっきりした終い方である。
 まったく同感である。しかし、葬送互助システムがまだ機能している地方では、なかなかそうもいかない現実がある。
 我を通せば希望通りのことができるかもしれないが、取り仕切る遺族が大変である。生前は我が儘だったのだから葬送ぐらいは家族の好きにさせてくれ、といわれるのがオチかもしれない。
 ネパールのヒンドゥー寺院で火葬の一部始終を見たことがある。今の日本のように、死者が隔離されているわけではなくとてもオープンな葬送だった。
 死者は煙となり天に昇り、灰となって地に帰る。
 それも悪くないのかもしれない。(*_*)
(photo:生きています。福井、三国にて)