個人的な体験(3)

 2012年2月、長崎にてーー。
 学生時代に一度長崎に行った。ノンポリのボケ学生だったので、とくべつ長崎に思い入れがあったわけではなかった。九州を旅行した「ついで」だった。
 夜の街をぶらぶら歩いているうちに、平和公園に出た。人の気配はまばらだった。
 噴水(平和の泉)のある広場までやって来ると、そこにはたしか、被爆し水を求めてさまよった少女(だったと思う)の手記があった。
 全文は忘れてしまったが、のどが渇いてしかたがなかったので油がういた水を飲んだ、というようなことが記されていた。
 そのときは10月で、まだ夜もさほど寒くなかったと思うが、噴水の水の音を聞きながらその一文を読んでいると、急に寒さを感じ急いで宿に帰った記憶がある。
 あれから、オリンピックが10回ほど見られるような年月が経ち、僕はヨレヨレのおとっつぁんになった。
 ずいぶんと間が空いての長崎だった。今度は「ついで」ではなかった。原爆の痕跡を訪ねた。
 爆心地、浦上天主堂(現在のカトリック浦上教会)に行ってみた。そこには、「被爆マリア像」が敷地の一角にそのまま残されていた。
 焼けただれ見るも無惨なその姿は生々しく、本来ならやさしい表情をたたえていたであろうマリア像は、原爆の犠牲者そのものだった。
 坂の上に建つ教会から道を下り車道に出、その車道に沿った教会下の歩道を巻いていくと、歩道の横を流れる小川の向こうの土手に、異様な建物の残骸が放置されていた。
 それはほんとうに、「放置」といっていいほど無造作に転がっているように見え、真新しい教会の建物や整備された敷地、整然とした町並みからは浮いて見え、それがまた逆に何か強烈にアピールしているようにも思えた。
 近づいてみると、解説板があった。それは天主堂の鐘楼、別名「アンジェラスの鐘楼」と呼ばれていたものの一部で、原爆で吹き飛ばされここに落下したのだという。
 被爆した建物で唯一、当時のままの姿を残しているもののようである。どうりで、異様なオーラを感じるはずである。
 浦上天主堂は、被爆後もしばらく建物の一部が残っていた。
 それは、広島の原爆ドームのように、記憶をとどめる長崎のシンボルになり得たと思うが、保存されることなくまもなく取り壊された。
 長崎には原爆の痕跡や永井隆博士の記念館など、あちこちに遺構が残されているが、広島のようなシンボリックなものがない。
 そこに何か、戦後の日本やアメリカの意向のもとに、そうさせられてしまった理由がありそうである。
 3.11以降、福島でさかんに放射能安全キャンペーンを展開したり、またそれ以前も、原発推進に熱心な御用学者が長崎大学出身者に多いのは、皮肉だろうか偶然だろうか。<(_ _)>