個人的な体験(1)

 先日、日本語教師の大先輩、Y先生から手紙が届いた。
 先生とはときどきメールを交換しながら、近況を報告したり時局を話題にしたりしていたが、手紙とは珍しかった。
 先生はいつも僕のヨタ話しをおもしろがってくれるので、気脈が通じていると勝手に思い込み、僕は調子のいいメールを送りつけ相手をしてもらっていた。
 しかし心の広い先生は、危なっかしいオロカな後輩を見張っておられるだけなのかもしれない。
 それはともかく、手紙の内容は、先生が幼少のころ名古屋で体験した空襲を綴った手記だった。
 戦後70年ということもあり、このタイミングで伝えたかったのだろうと僕は理解したが、茶目っ気のある先生のことだから何か僕へのメッセージが隠されているのでは、と思った。
 まあそうでないのかもしれないが、通り一遍の感想を述べるにはあまりにも重い体験だったので、僕なりの回答を文章化することにした。
 (1行アキ)
 『個人的な体験(1)』
 (1行アキ)
 1994年8月、ハワイ・オアフ島 真珠湾ーー。
 「日本人か?」ーー白人の老紳士に聞かれた。
 「そうだ」と答えると、彼は小さな声でなにか口にしたが、僕には聞き取れなかった。しかし、微笑んだその表情から好意的なものを感じた。
 日本軍による真珠湾攻撃を後世に伝えるためにつくられた施設「アリゾナ・メモリアル」には、東洋人の姿はほとんど見かけなかった。
 リゾート地ハワイに来てまで、暗い過去を封じ込めた、日本人にとって完全なアウェーの場所にわざわざ行かなくても、と思っていた。
 しかし、そうすることが礼儀だ、という思いのほうが勝った。
 大勢の、アメリカ人とおぼしき白人の見学客にまじって、巨大スクリーンに映し出された当時の映像を観たあと、ランチボートで、浅瀬に沈んだ戦艦アリゾナの上に作られた記念館に移動した。
 50数年前にここで激しい戦闘があったとはとても思えないほど、真珠湾はおだやかだった。
 海上に作られた施設から、すぐ手が届くような海中に黒々と横たわる戦艦をのぞき込んだ。当時日本の国力の10倍もあった国に、無謀にも宣戦布告した我が国の不明を思った。
 戦前、身の危険を感じながら日本の危うい進路を引き戻そうとした人々も、少なからず存在した。しかし、大きな流れに押しつぶされてしまった。どこか今のこの国の状況と似ている。
 静寂のなか、人々は一様に小声で語り合っている。
 幼い我が子たちが、退屈して騒ぎ出さないかヒヤヒヤしながら、この地で起こったことを想像した。
 ーーそっと合掌した。ハワイが胸襟を開いたような気がした。<(_ _)>