師走のはじまり

 師走は毎年「報恩講」からはじまる。
 およそ信仰心からはほど遠い人間を自認しているが、門徒としてこれだけはさぼることができない年中行事のひとつである。
 檀那寺でいとなまれる講に参列するのが本来の姿だが、寺が県南の端と遠いため僧侶がこちらに出張してくるのである。
 我が町内には門徒が6世帯のみ。他は近隣の寺の門徒がほとんどなので、どういういきさつがあって我々6軒が遠方の寺の門徒となっているのか、今となってはわからない。
 昼過ぎに寺の住職と伴僧がやってきた。「宿」となっている今年の当番宅で身支度をととのえ、門徒の家々をまわりお経をあげて行く。だいたい1軒15分くらいのスピードで回る。
 忙しいのか、駆け足である。彼らが読むお経も気のせいか、はしょっているような気がしてならない。しかし、長ければありがたいかというと、足のしびれを代償にしたくもないからビミョ〜なところだ。
 6軒が終了すると、件の「宿」宅に門徒が集合する。
 ひと昔前ならそこで女衆の手料理がふるまわれ、膳を囲んでお酒も入り、僧侶と門徒衆がなごやかに会食する場となった。
 しかし今は、僧侶は巡回が終わるとそそくさと着替え布施や御膳料を受け取り、あいさつもそこそこに帰って行く。
 その後で、門徒衆が費用の精算をするわけだが、それが終わるとお茶を飲んで散会である。
 まるで牛乳からバターを搾り取ったあとの、脱脂粉乳のような味気なさである。女衆の手をわずらわすこともなく、また、信仰心のうすい門徒と住職が膝を交えて話すこともない。
 時代とともに文化がすたれていく過程の当事者として忸怩たる思いはあるが、一方の檀那寺側もあまりにもおそまつだろう。このご時世、彼らも危機感がなさすぎる。
 報恩講を合図にはじまった師走は、今年もあっという間に過ぎ去りそうである。(¨;)
(photo:札幌にて)