空気は読まない

 サラリーマン時代は、ときどき同僚と飲みに行った。そんな場での話題はといえば、会社のことが多かった。メンバーによっては、会社の話しばかりということもあった。
 趣味の仲間や親戚の集まりではないのでそれもしかたないのだが、度が過ぎると酒もまずくなるし後味も悪い。
 上司がいっしょの席では、とくとくと自慢話を聞かされたりすることもある。それはもうひとつの気が滅入るオプションだった。
 本屋へ行くと最近は、政治経済関係の書棚に、中国や韓国を貶めたり罵倒したりする本ばかりが並んでいる。
 それらと表裏をなすように、我が国を賛美したりナショナリズムを高揚させたり、右傾化をうながす本もまた、ジョークのようにたくさん積まれている。
 要するに、同僚隣人の悪口や自分の自画自賛の自慢話をしているのである。
 世の中の空気を反映したひとつのショーケースなのだろうが、どうしてこうも見事にバランスを欠いた布陣になっているのだろうかと、本屋へ行くたびに思う。
 もちろんそうでない本もたくさん出されているのだが、目立つところに置かれているのは冷静さを欠いた偏狭な本ばかりである。
 「空気を読む」ということががある。我が国は今、ある特定の勢いのある空気に合わせるかのように、あらゆる者が空気を読み大きな塊をつくっている。
 本屋でそういう空気の本をもとめて手に取る人たちもまた、同じ空気を吸う人たちなのだろう。
 この国は「個」が確立されていないから、ひとたび大きな空気がつくられるとすべてが同じ空気を吸おうとする。そこに得体の知れないガスが充満していたとしてもかまわない。
 会社の飲み会の翌朝が清々しかったことはあまりない。ならば付き合わなければいいのだが、日本の組織社会で「個」を主張して生きていくことはなかなか難しい。
 せめて一個人にもどったときぐらい、「空気は読まない」ようにしたい。
 隣人を蔑みヘイトスピーチに加わったところで、むなしいだけだろう。(-_-;)
(photo:人形浄瑠璃祭り。東二口にて)