「極限」と身体性

 南チロル出身の登山家ラインホルト・メスナーは、世界ではじめて8,000m峰14座をすべて無酸素で登頂した。
 標高8,000m以上は「デスゾーン(死の地帯)」とよばれ、そこに身を置くだけで刻一刻と体力を消耗する場所である。とくにエベレスト(8,848m)など8,500mを越える場所では、人間にとってぎりぎり生存が許される極限の地となる。
 エベレストを初登頂したのは、エドモンド・ヒラリーテンジン・ノルゲイだが、その当時は酸素の補給を得て登ることがあたりまえだった。
 8,000m峰初登頂時代は、大部隊の登山隊が少しづつキャンプを前進させ、アタック隊に選ばれたメンバーだけが頂上に立つ、「極地法」という遠征スタイルが主流だった。
 ところが、8,000m峰の先陣争いが終わったあとは、少人数の登山隊が速攻で頂上を攻略する「アルパインスタイル」が台頭しはじめた。
 そして、同時に「無酸素」というオプションを付加し実行に移したのがメスナーである。彼が無酸素にこだわったのは、けっしてパフォーマンスではなかった。
 科学技術に依存しきってしまったら、人は成長という可能性を発揮できず、自分のうちに秘めた能力を外に解き放つことができない、と彼はいうのである。
 酸素マスクという文明の利器に頼れば、それが故障したり酸素の供給が終わったときは、死がすぐ目の前にやってくる。
 メスナーのように「極限」を経験した者は、ぎりぎりの状況で研ぎさまされた感覚のなかから真理を見出すのだろう。
 ひるがえって、自分が置かれている状況を見渡せば、「極限」とはほど遠いところで日々生きている。
 それが幸せかというと、衣食住がある程度確保されているという点ではそうなのだが、一方で鈍磨していく自分の五感にときどきあせりを感じるのである。
 メスナーのようにはできないけれど、自分の身体性だけは大事にしたいといつも思う。
 たとえば今夏、自分のために自宅のクーラーを稼働していない。暑くても、近場は自転車にしている。3,000m級の山へ行ってへとへとになった。
 ーーなど、いろいろやった。しかしトシとともに、「極限」が向こうのほうから近づいてきているような気もする。それは、幸せかどうかわからない。(^^ゞ
(photo:中央左奥の三角がエベレスト。タンボチェから。1981年)