単調さからの逃避

 「判で押したように」というたとえがある。同じことの繰り返しで変化がない生活や仕事について形容するときによく使われる。
 多少揶揄したような意味で使われることが多いが、人間は反復性を甘んじて受け入れる性向がある、といえるのだろう。
 こういうことがある。複数日にわたって開かれるセミナーや講義に参加するとしよう。参加者や受講者の席は自由である。
 こういう場合、初日に座った席にほとんど次ぎの日も座る。そういうケースが多い。初日の席によほど不都合がない限り。
 外国人の場合はどうかわからないが、日本人は自分が席を変わることによって、一旦できあがった秩序を乱すのではないかとふと考えるのではないだろうか。保守性ともいうべきものだろう。
 その保守性と反復性は、「単調さ」につながる。単調さを、我々は心地よく思うこともあるが、一方でそこから抜け出そうとしたり、一時避難したりすることもある。
 気分転換や息抜きがそうである。スポーツをする。飲みに行く。旅行する。人によってさまざまだが、つきつめれば冒険家や探検家、登山家などもそうだろう。
 イギリスの心理学者W・ウォルターは、「探検したいという衝動は、人間の神経構造に組み込まれている。……人間という種は安定した環境では落ち着かないのだ」という。
 それを、自分を取り巻くもう少し大きな輪にあてはめてみる。
 飲みに行ったり旅行したり、あるいは転職したり結婚したり……。我々は、単調さから逃れるオプションをいろいろ持っている。
 しかしそれらはすべて、「単調な平和」というもののなかに存在するアイテムにすぎないと考え、「探検したいという衝動」にかられて、この国を戦争できる状態にしようと画策している集団が暗躍している。
 困ったことに、同調する国民も少なくないのである。「単調な平和」でいいじゃないか。ささやかな逃避を楽しむ、「判で押したような」日常でいいじゃないか。(-_-;)
(photo:ムラサキヤシオ。鈴ヶ岳にて)