「いい身分」の日々

 同級生などとたまに会ったりすると、「今何をしているの?」と聞かれる(聞く)ことが多い。
 サラリーマンなら、そろそろ停年をむかえるビミョ〜なトシまわりなので、お互いその質問は仕事関係のことだろうと、すぐに察知するのである。
 とくに近年は、停年を65歳まで延長する流れが定着してきているので、そう聞かれていきなり孫自慢をはじめる者はまれである。
 そうでなくとも、孫方面の話しをしたくてたまらない新米ジジイが多いので注意が必要である。
 僕の場合は、「毎日が日曜日さ」と自嘲気味に答えると、たいがいは「いいご身分やな」といわれ、つづけて「ヒマもてあますやろ?」などと、皮肉っぽくいわれる。
 先細る本業は見るも無惨なのはじじつだが、けっして「いい身分」でも「ヒマ」でもない。
 このところずっと身代の雑事に追われ、また、今年から自治会仕事が加わったこともあり、そうヒマではないのである。
 それに、外国人に日本語をおしえる仕事も毎週のように入っている。そちらはボランティアなので、「いい身分」といわれる筋合いのものかもしれない。
 生きていく糧が他で確保されていることが前提のボランティア仕事なので、そういう余裕がないと従事できないのは確かである(その「余裕」もそろそろ怪しくなってきたのだが……)。
 外国人が日本語を学びたいという需要はあるのだが、日本語教師という「職業」は、ここ北陸地方では成り立たないので、好きな仕事だが今はしかたがない。
 日本の「ボランティア」は、阪神淡路大震災を経験して定着したといわれている。以来歴史を経て、3.11後の東北ではあたりまえのようにボランティアが日夜活動している。
 しかしまだ、世間一般にボランティアが正しく理解されているとは思えないのである。
 大震災のボランティアに象徴されるように、「ボランティアとはとくべつなものだ」という認識を持つ人がワリと多いのではないだろうか。
 日本では、相手がどんな仕事(職業)かということが、付き合ううえで重要な情報のひとつになっている。とくに男の世界では。「ボランティア」ではなく「仕事」が大事なのである。
 しかしたとえば、やらされている「仕事」と、自主的に従事している「ボランティア」の、社会にあたえる影響を比較してみると、仕事は立派でボランティアは趣味の領域であるとは、単純にはいえないのである。
 「自主性」というものを考えると、ボランティアは社会を変える力を持っているのである。
 自分の思いでボランティアに従事している人たちのなかには、たぶん「ボランティア」といわれたり、答えたりすることに引っかかりを覚える人も少なくないかもしれない。
 ーー僕もそうである。ひとつの理由はおそらく、「ボランティア」ということば自体が、日本人にしっくりこないからではないだろうか。(__;)
(photo:5月の濡れた砂。いや、足。岩瀬浜にて)