かぜぐすりの効用?

 ボランティアにかかわる人の動機というのは、世代によってはっきりちがう。
 ある統計によれば、若者は、自身のキャリア形成や人生経験のためであり、年配者は、自身が蓄積した経験やノウハウの還元や社会参加のためである、という。
 もちろんいずれの世代にも、純粋な利他思想によって参加する人たちもいるだろうが、それは少数である。
 今の若者は……といういいかたがあるが、たとえば、オリンピックに出場した若者たちのインタビューを見ると、彼らは節度があってじつに礼儀正しい。
 それは、今の政治家や官僚の、品性のかけらもない薄っぺらい物言いと比較すると、じつに対照的である。背負っているものがちがう、という問題でもないだろう。
 おそらく若者は、景気のよかった日本を知っている中高年世代よりも、地道で堅実である。
 高齢化が進むこの国のそちこちに、ひまを持てあます老人たちがいる。成熟老成した、人生の先達たちの姿を見るのは気持ちがいいものだが、ちまたにはそのようには見えない人々がかなりいらっしゃる。
 今のように科学技術が発達する以前は、年配者の経験や人生の蓄積がそのまま財産となっていた。だから、老人たちは敬われ大切にされたのだが、今はちがう。
 かつて年配者が担っていた役割は、すべてコンピュータや記憶媒体などの科学技術がまかなうようになってしまった。
 停年を迎え社会の第一線から離れた者は、敬われるどころかしだいにうとまれるのは、しごく当然のことだろう。
 しかもたいがいは、急速に進歩する世の中のあれやこれやについて行く能力も衰えるから、まあ、老人受難の時代になったともいえよう。
 そこでボランティアの登場である。そこにはまだ、年配者の生きるフィールドがあるのである。日がな一日、図書館やショッピングセンターで時間をつぶす必要がなくなるのである。
 阪神淡路の震災を機に、我が国にもボランティア活動が定着してきているが、一般的にはまだまだ敷居が低いとはいえない。ひとつには、「きっかけ」の問題がある。
 このままでは、増えつづける高齢者とともに、受動的な不平不満が充満する不健康で後ろ向きな国になる恐れがある。
 ボランティアに参加するということは、そこを変えていく力が市民に生まれる、ということである。
 ーー今日はどうしたことか、似合わないことを書いてしまった。春が近いせいか……いや、春とは関係ないな。かぜぐすりのせいだろう。(¨;)
(photo:電鉄黒部駅にて)