商業主義的国威発揚イベント

 オリンピックは確か、「スポーツの祭典」だったはずである。ようするに、「お祭り」である。
 お祭りだが、スポーツをする以上、勝ち負けが発生する。勝負事はおもしろい。ついつい熱狂してしまう。
 しかし、その勝負事のわかりやすさから、熱狂がナショナリズムに利用されやすい。
 近代オリンピックは、巨額のお金が動くようになった。資本主義が蔓延した以上、ある程度商業主義に走るのはしかたがないが、お祭りそっちのけで、いろいろ思惑を持った人たちもお金のために跳梁跋扈する。
 選手も自分の技術向上に集中することだけでは許されず、いろいろなストレスを付加されるようになった。
 勝負すれば、誰しもが勝ちたいのは当然である。オリンピックは「参加することに意義がある」はずだったが、最近では誰もそんなことは思っていない。
 とくに、注目をあびるスポーツ(選手)には、選手本人が制御できない負荷がのしかかってくる。
 これほどのビッグイベントにのしあがったオリンピックは、資本主義繁栄の場である。また、国威発揚のまたとないチャンスでもある。
 出場する選手も大変だろうが、応援する側はなにがなんでもメダルではなく、せめてまずは世界のトップアスリートの技を楽しむ気持ちの余裕が必要だろう。
 メダルをもとめて叫べば、どうしてもナショナリズム発揚勢力に利用されやすい。そうさせないためには、前回も書いたが、もっと外国人選手に注目すべきだろう。
 そういう日本人の姿勢が、日本選手のプレッシャーを解き放ち、結果的には日本選手にメダルをもたらすことにもつながるのである。
 たとえば、この項を書く直前にニュースで流れた、東京五輪組織委員会会長のM元総理の発言などは、問題外である。コメントするにも値しない稚拙で情けない言動である。人間として終わっている。つくづく、冷たい国だな、と思ってしまう。
 しかし、ソチとの時差はやっぱりネックだ。ふぁ〜 (;O;)
(photo:リラックスしてオリンピック観戦……したいにゃ〜)