朝のエピソード

 毎朝通勤列車で同じ電車に乗ると、ついつい同じ車両の同じ扉から乗ってしまう。そうすると、車内では周りがだいたい同じ顔ぶれだ、ということにまもなく気づく。
 そういう固定した行動はあまり好きではないので、せめて同じ車両でも扉は3箇所あるので、その日の気分で適当に変えて乗ろう、と思って適当に実行している。しかし、途中駅で乗り換える利便性を考えると、車両までは変えたくない。
 そのような早朝の車両に、僕が乗る次の駅から乗り込んでくる50がらみの男がいる。
 朝のルーチン行動から推察するに宮仕えの身ではないかと思うが、いつも光沢のある黒いダウンジャケットをはおり、ときにはキャップなども頭にのせていたりと、かなりカジュアルな恰好で現れる。
 ショルダーも大きめだから、さながらフリーカメラマンのようないでたちである。
 彼は乗り込むと、車内に背を向けるようにドアのガラス窓にもたれるようにしているが、しばらくすると体勢を入れ換えるように体を反転させる。
 しかし男は、この世におもしろいことなど何ひとつない、というような表情をして、朝っぱらから怒ったように虚空をにらむのである。
 ある日もまた、その男が乗り込むのに出くわした。そしていつものように電車のドアにもたれるのだが、電車が発車しホームをはなれる瞬間に、外に向かって小さく手をふるのが見えたのである。
 旅行に行くわけでもなさそうだし、いつもの通勤と同じような恰好に見える。
 何かとくべつな事情があったのかもしれないが、しかし何より、その男の表情や醸し出すふんいきから、手をふるという行為がまったく似合わないので、妙に気になったのである。
 当然、手をふった先の相手も気になるものである。
 この時間帯はまだ夜明け前だが、天気さえよければうっすらと明るい。幸い次の日はそんな日だったので、くだんの駅では、ホームの外に向かって車内から注意をはらった。
 すると、暗がりのなかで大きく手をふっている女性が見えたのである。
 その表情まではわからなかったが、真冬の朝の寒さのなか、そういうカップルが毎朝そういうセレモニーをするということが、何か頭のなかの固定観念の一部を溶解させたような気がした。
 どんな関係かはどうでもいいと思ったが、男のいつものニヒルに構えた表情をうかがうと、ただ苦笑を禁じえなかった。(^_^)
(photo:カトマンズにて)