存在の耐えられない軽さ

 自分にないもののひとつ。思慮深さ。あこがれているのだが、持って生まれた性格はたやすく変わらない。
 先日も、久しぶりに電話で話した古い友人に、父親のおくやみを述べてしまった。うっかり。彼の父は健在で、僕の思いちがいだったのだが、まったく冷や汗ものだった。
 ある日は、外国人日本語学習者に、調子に乗ってプライベートな質問をしてしまった。と、気づいたがおそかった。
 またあるときは、Aさんにお願いした件を、返事を待たずにBさんにもお願いしてしまった。成り行き上いささか事情はあったのだが、思慮を欠いているといわれてもしかたがなかった。
 最近でもこのような体たらくであり、まったく軽佻浮薄のそしりを免れない思慮の浅さである。
 僕の年上の友人が今、闘病生活を送っている。会えばバカ話しができる貴重な友だちだが、見舞いの足はやはり躊躇する。
 病気の見舞いというのは、デリケートな問題だと思う。相手が重篤な病気ならなおさらである。もちろん家族は別だが……。
 若いころに考えさせられた。
 あるとき、世話になった知人の病気見舞いにいった。中年にさしかかったばかりの彼は、病院のベッドで別人かと思うくらい衰弱していた。
 彼の姿を見て、僕は見舞いに来たことを後悔した。さほど親しい間柄でもなかったのに、プライベートのど真ん中に立ち入ってしまった非礼。そしてなにより、その見舞いという行為が自分のためだったことに気づいた恥ずかしさーー。
 彼はしぼり出すような声で礼をいってくれたが、僕は逃げるように病室から出た。
 以来、病気の見舞いに、自分での一定のルールをつくった。
 基本的には、直接見舞うことはやめる。旧知の友人であっても、ちょっと来い、といわれないかぎり遠慮することにした。
 それでかなりすっきりした。しかし、親類縁者の場合は少しまた事情がちがう。親疎によってはビミョ〜なところもあるから、対応には注意である。
 まあ、こういうことが思慮の程度と関係があるかどうかわからないが、今闘病中の友人の快癒を願っていることに変わりはない。(^_^)
(photo:上海浦東空港にて。2012年秋)