記憶は海をさまよう

 最近、記憶ほどあいまいなものはない、と思い知った。
 先日、探し物がなかなか見つからなかった。たしかにそこに保管したと思っていたものが、忽然と姿を消していたのである。その周辺や、もしやと思う場所をなん回も徘徊したが、見つからなかった。
 無いとわかると気持ちがあせるものだ。そして近視眼的になり、ますます見つからなくなるのである。あまつさえ逆上して、家人が悪い、と思わせるようなこともいったのである。
 結局、疲れ果てて呆然としていた。ところが、怒りなかばの家人のあることばがヒントになって、あらたな “鉱脈” が思いあたった。
 探すと、それはそこにあったのであるーー。
 自分が思い込んでいたAという場所から、Bという場所に移動されていたのである。したのは自分だ。ではなぜ、新しいBという場所を忘れて、古いAをいつまでも覚えていたのか。
 きっとAという場所が印象に残っていて、記憶に鮮明だったのだろう。Bは新しい場所だったが、移動した強い動機や意味が希薄だったのである。
 新しい記憶を忘れ、古い記憶は覚えているーー。これはまさしく認知症ではないか。プチ認知症
 ちがうケースでは、たとえばこういうことがあった。
 以前行ったことがある飲食店に行こうと思って、かなりの自信を持ってその場所に行った。しかし、そこに店はなかった。
 記憶どおりの道順をたどったし、店がつぶれたという話しも聞かないから、どうやら思いちがいだったようだ。
 これは、記憶の上書きともいうべきものだろうか。何かの拍子にいつのまにかちがう道順や位置情報が頭に入っていたのである。
 今秋コタツを買い換えたが、壊れたほうのコタツを買った時期を調べてみると、記憶とはかなりズレていた。
 かように、記憶の取り扱いには注意が必要である。
 先週、祖父母の法要をしたときにかんたんな栞をつくった。そのとき、ふたりの誕生日が思い出せなくて叔母に尋ねたのだが、彼女の答えは「忘れた」だった。
 その清々しい回答に、僕は妙に感心した。(O_O)
(photo:兵庫県朝来市にて)