新聞を読む楽しみ?

 朝新聞を読むとき、左手でページをめくるクセがついているので、いつもテレビ番組欄から見てしまう。
 つまり裏面から読んでいく、ということになるのだが、右利きなのでこれは少しおかしいのかもしれない。
 クセというよりも、覚醒していないもやのかかったような頭が、一面トップを無意識のうちに回避するのだろう。その行動が、習慣化したのかもしれない。
 まずは地方の身近なニュースやスポーツ、文化欄でウォーミングアップしていくのである。なかなか酸素がいき渡らない、僕のような空っぽ頭では大事なことなのである。
 そうやって裏から順にページをくっていくと、ワリとすぐに「お悔やみ欄」があらわれる。うちが購読している地方紙はとなりのT山県の分も掲載されているので、その業界の広告スペースをふくめると、毎日ほぼ一面全部、お悔やみ関係が専有する。
 無尽講のような、香典互助システムが根強く残っているこの地方に生きていると、この「お悔やみ欄」に目を通すことは、毎朝の日課の一つとなる。
 こういった相互扶助無尽ループから抜け出すのはなかなか難しい。最近は「家族葬」などが執り行われ、すべてすませてから掲載される、というケースもあり、それが義理の付き合いのある相手だとわかると、申し訳ないけれど、ほっとするのである。ーー遺族の英断である。
 我が地方紙は、個々の故人の欄に通夜・葬儀の日程、若干の個人情報、そして、遺族のコメントを短く添えている。たとえばこうだ。
 「家族思いのやさしい人でした」「孫と遊ぶのが何よりの楽しみでした」「仕事一筋でしたが、家庭も大事にする父でした」、などとある。でも、だいたい定型的なパターンになる傾向がある。
 「ようやく逝ってくれました」とか、「たくさんの遺産をありがとう」、などというコメントは皆無である。
 しかしどうもそのコメントに、僕はいつもひっかかりを覚えるのである。ああそうだったのですか、惜しい人を亡くしましたね合掌、とは思っても、で、じつはどんな人だったのだろうか? と同時に考えてしまいそうである。
 しかし毎朝お悔やみ欄を見て、知りもしない故人に思いをめぐらす、なんてことをやる趣味も気持ちもない。……念のため。
 まあ簡潔にいえば、人の人生をそんなひとことでまとめていいものか、と思うからひっかかるのである。つまり、あれはいらないな、ということである。
 今日は、新聞の読み方について少し書くつもりだったが、お悔やみ欄で妙にひっかかってしまった。また後日にしようーー。(^_^;
(photo:福建省崇武鎮にて)