ときには「労働」する

 人間の環境への適応力というのはなかなかすごいと思う。なにしろ仕事がないと、すぐさまぐうたらな状態になってしまうのである。
 いやいや、「人間」などと一般化してしまってはいけないのだった。「僕の場合」、に訂正しなければいけないですね。
 どうやら「ぐうたら状態」にはただちに適応してしまうが、「多忙状態」にはなかなか適応できないようだ。長いことぐうたら状態をやってきたからかもしれない。
 要は易きに流れやすいのである。困ったものだ。
 「働く」という行為は、人間にとってとても大切であり、不可欠であると思っている。しかし、「働く」ということを「労働」といいかえると、ちょっとちがったイメージにもなる。
 かつてサラリーマン時代に残業の毎日を送った。あれはまさしく「労働」だったかもしれない。仕事はきらいではなかったが、仕事に追われていた。ときどき、どうしてこんなに働くのだろう、と疑問に思った。
 僕は一度読んだ本はほとんど読み返さないが、例外的な本が少しある。そのなかの一冊に『働くということ』(黒井千次 著/講談社新書/1982年)という本がある。
 働くことや、仕事に行きづまるとよくこの本を開いた。これは、説教本でも啓蒙書でもない。黒井千次という作家が、会社勤めの経験から得たことや考えたことをわかりやすく記したものだ。
 いささか大げさかもしれないが、30年ほど前、この本に出会ったことは僥倖であった。
 この本はまた、「毎日が日曜日」状態のときにも読むのもいいかもしれない。
 無人島へ一冊だけ持って行ってもいい、といわれれば……きっと置いていくだろう。たぶん、地図張とか時刻表をえらんでしまうだろう。……オタクですね。
 それはともかく。忙しさの山を越えたときのカタルシスもまた格別である。そこにまた「労働」の本質があるのだろう。(__;)
(photo:老舗和菓子屋にて。七尾市