恐るべし、DNA

 たとえば咳をすると、その所作が自分の父親とそっくりだなと思うときがある。またあるときは、ご飯の食べ方が母親と似ている、と気づき苦笑することもある。
 子どもの歩き方を見て、自分とそっくりだと思ったり、いろいろなことで悩んでいるその悩みのポイントも同じだわ、と思ってときには愕然とする。
 それはひとえに「DNA」のなせるワザである。DNAというのは、微に入り細をうがって引き継がれていくようだ。
 それはあたりまえのことなのだろうが、ときどきそのことを忘れてしまって、子どもに過剰な期待をしたり求めたりしてしまうのである。
 もっとも僕は、“大リーグボール養成ギプス” を子どもにつけさせたりはしないが、トシを食って自分の限界と欠点を熟知してしまった親として、自分になかったものを子どもの可能性に転化してしまうのもまた人情だろう。
 親はふたりだから、双方の遺伝子を引き継いでいるので、新たな可能性がないわけではない。あるいは隔世遺伝ということもあるし、まれに突然変異という事態も考えられる。しかしまあだいたい、お互いの家系をながめればおおよその見当はつくだろう。
 勉強嫌いな両親から東大へ行く息子(娘)は考えにくいし、スポーツが苦手な親からプロサッカー選手が生まれるとも考えづらい。
 最近なぜかそういう「遺伝の不思議」というようなことを、ときどき考えてしまうのである。だから今になってまぬけなことに、今さら気づくことも少なくない。池上彰ではないが、そうだったのか、と。
 僕の父親はすでに亡く、母親は健在で今もいっしょに住んでいるが、自分が親から独立してしまうと、お互いの関係性はもはや親子関係というよりも、大人と大人の関係というふうに変わってしまう。
 そうすると、今まで知らなかった親を発見したりして、ときにはおどろき、ときには考えさせられたりするのである。
 しかしそれは、己の過去のおろかな言動や、ややまれにすばらしい行為などにおよんだ背景をあぶり出すのである。
 人間は知らず知らず、先祖の轍にはまりながら生きていくのだろうなぁ。(O_O)
(photo:七尾小丸山公園にて)