最近の日本は、マジか?

 「この革の縁取り、剥がれるかもしれませんが大丈夫ですか?」と、クリーニング屋の女性店員にいわれた。
 思わず、「大丈夫じゃないです」と、僕は答えてしまった。
 クリーニングに出した冬のセーターは、襟口を牛革で縁取りしてあるものだった。
 おそらく彼女は、「作業上そういう可能性もありますのでご了承ください」、という意味でいったのだろう。しかし、「剥がれてもいいか」といわれれば、「ダメだ」と答えざるを得ないだろう。
 つまり、日本語の問題なのだ。以前にも書いたが、この「大丈夫」ということばは最近ちまたにあふれている。ほかに語彙はないのか。ほんとうに日本は大丈夫か、と思う。
 でも最近の日本はどうも大丈夫ではなさそうである。
 人権感覚、国際感覚が欠如した為政者ばかりである。そして腰が引けているマスコミに、バカな政治家をそれでも支持する国民も大丈夫か、である。
 ま、それはさておき、そういうかなり柔軟な日本語の使い方は、ときどき日本語学習者から質問される。
 たとえば、「マジか」って何ですか? と聞かれる。
 近ごろの稚拙な政治家たちには、ほんと「マジか」といいたくなる。と、またそっちに話しがいきそうになるが、この「マジか」もいつの間にか市民権を得てしまった感がある。
 この手の崩れた日本語が流行するたびに、不純異性交遊許すまじと叫ぶPTAのごとく、僕も眉をひそめる側に立つのだが、こなれてくるとふつうに使っている自分に気がつくのである。どうにもだらしがない。
 「やばい」とか「やべえ」も、若者を中心になんだか定着している。しかし、これはあまり使う気になれない。下品である。昔からあったことばだが、もともとやくざことばだったから、使うことに抵抗があるのかもしれない。
 言語は生き物だから、その言語を使う人々が新しいことばをほんとうに受け入れるのなら、多少の抵抗はあってもそのうち定着していくだろうが、やはり語源からふりかえってそれが許容できるかどうか自分なりに考えてみたいと思う。
 もっとも、日々そういうことを考えてばかりいると、ほんとうに「大丈夫か?」といわれそうである。(__;)
(photo:豆腐づくしのランチ。名古屋にて)