人は「握って」変わる

 15〜6年ほど前、2週間ぐらいのあいだに3回、たてつづけに駐車違反で検挙されたことがあった。そのうちの1回は、ほんの5分ぐらいクルマからはなれたスキに違反カードを取り付けられた。
 運が悪かった、といってしまえば反省の色なしだが、そもそもそんなところにクルマを駐めたほうが悪いのは確かである。
 反則金も痛かったので反省もしたけれど、なんだかパトカーにつけねらわれているようで、正直なところ気持ちのどこかで自分の不運をなげいてもいた。
 それは僕の長い運転歴のなかでも特殊な例だが、クルマにまつわるトラブルというのは一度にやってくる場合が多いと思う。クルマの運転というのは、ドライバーの心身状況によって大きく左右されるからだろう。
 その伝でいえば、最近の僕はブラックホールに吸い込まれそうになっていたのかもしれない。
 とてもおろかなミスなので詳細は秘密だが、立てつづけに「ヒヤリ」や「しまった」がつづいたので、なんだか悪魔が手招きしているような感じだった。ただ、大事にいたらなかったのはさいわいである。
 走っていると、ときどきピタリと後ろにくっつかれることがある。なにも僕は追随車のイライラをかうような「安全運転」ではないので、そういう行為は危険で不快である。
 そして、いったいどういうやつが運転しているのかいつも気になる。
 「ハンドルを握ると人が変わる」といういい方があるが、あれはクルマという「匿名性」を利用した本音の行為だろう。
 追い越させてすぐさま後ろにくっついてやろうか、と思ったこともたびたびある。しかし、いつも一線を越えることなく思いとどまっている。
 この前、前方を走る、自転車よりおそいだろうと思われる軽トラに、思わず接近してしまった。そのクルマは困ったことに、僕の行きたい道を先導するように走るのである。
 家の近くまで来たところで、ハッと気づいた。……近所のじいさんだった。ーー危ないあぶない。反省。
 ところで、「マイクを握ると人が変わる」ということもいわれる。人は何かを「握る」と変わるのだろうか……。(-。-;)
(photo:富山市松川沿いの桜)