正月という感覚

 年末年始というのは、瞬く間にあわただしく過ぎていってしまう。正月ぐらいゆっくりしようと思っても、気がつくと明日から仕事。いったい何をしていたのだろう、とハッとする。
 しかし、それは凡人の時間感覚。凡人の時間の流れは一本しかないからだろう。非凡人はおそらく複数の時間感覚を持っている。正月休みといえども着々と計画を実行しているはずだ。
 まあ、僕などは全身凡人。凡人カーストがあれば下位の部類に入る自信があるくらいだ。だから正月の終わりにあわてふためく。正月が過ぎると、ジェットコースターのごとく年末を迎えてしまうからだ。
 何も仕事が忙しいからではない。トシとともにそういう時間感覚になったからだ。
 年末に、自分の山行記録をつらつらながめていた。北アルプスの盟主といわれる山へ最後に行ったのが5年ほど前だと思っていたら、8年前だった。ということがわかって、軽いショックを受けた。
 かように時間感覚が、中国の高速鉄道のようにスピードをあげ、物事が背後に遠ざかっていく。
 昔ほど正月らしさはなくなったね、とはよく聞く。
 たしかに、年末年始の行事やしきたりが簡略化されたりなくなったりしている。近年は元日から商業活動がさかんだし、テレビが娯楽の中心から外れて久しい。
 だんだんと時間が平準化されてきているような感じである。正月が特別のものではなくなり、単なる連休になってきているようにさえ感じる。
 「昔の正月」という感慨は、高度成長期時代の感覚をひきずっているか、あるいは子どものころへの郷愁だろう。わかりやすくてメリハリのある正月は、この日本にもうあまり残ってはいない。
 薄っぺらくなったカレンダーを静かに下ろし、真新しい新年のものに換える。「けじめ」ということを好む日本人は、そういう一つひとつの小さな行為に気持ちを新たにし、正月を感じる。
 そして、初詣という習慣。ここでは、変わらぬ「正月」を感じることができる。これだけは廃れることがない。
 僕たちの精神性に宿るものなのか、あるいは単なる御利益願望なのかーー。神仏をとくべつあがめているわけではないが、「正月行事」として参詣する。
 ひいてみたおみくじは「吉」だった。よいご神託だけ信じよう。(^。^)
(photo:雪の社。金沢神社)