匂いの深淵

 この前冷蔵庫のなかを片付けていると、バニラエッセンスの小さな小瓶をみつけた。
 使用期限がとっくに切れていたので流して捨てようとしたら、誤って手にたっぷりふりかかってしまった。
 天然のバニラは、ラン科の蔓性植物から抽出される。しかし天然ものは高価なので、香料として使う市販の安価なものはほとんど人工的に合成された物質である。
 そのせいかどうかわからないが、その後2〜3日、手から発する強烈なバニラの甘ったるい香りに悩まされた。もしかしてこのままアイスクリームが嫌いになるのではないかと心配した。
 こうなると、かぐわしい「いい香り」のものも、迷惑な「臭い匂い」に変わってしまう。匂いは、人間の感覚や感情を大きく左右するのである。
 たとえば、ドリアンという南方の果物がある。とてもおいしいといわれているが、あのある種の腐敗臭をかぐと、そこまでして食べることもないなと思ってしまう。
 中国に「臭豆腐」という料理がある。発酵食のせいか、鼻をつく強烈な、何と表現していいのかわからない、とにかく「いい匂い」などとはどうしても表現できないほどの臭気を発する豆腐料理である。
 地方によっては、屋台で料理して売っているので、その臭気の汚染地帯はずいぶん広範囲になるのだ。
 じつはこれは食べたことはあるが、臭いのわりにおいしいものだった。いざ食べるときには、さほど臭わないのも意外だった。
 日本に住む外国人に、ときどき納豆のことを聞いてみる。あれもストロングな臭気発生食品だが、その性格上、彼らの納豆許容度もハッキリと分かれる。まあ五分五分というところだろうか。
 発酵仮面・小泉武夫先生によれば、世界最強の臭気を発する食品は、スウェーデンの「シュールストレミング」だそうである。これは、ニシンを漬け込んで、缶詰のなかで発酵させたものだ。ーーもちろん食べたことはない。
 匂いはほんとうに不思議だ。変幻自在で、ときには人生をも狂わす。色香に惑わされる、というのもそのたぐいだろう。好きな人の匂いは芳しく、嫌いなやつの匂いは我慢できない。
 かように主観的な「匂い」というもの。さて、多党入り乱れての選挙戦、ゆめゆめ「いい匂い」にはだまされないように……。(*_*)
(photo:冬の晴れ間)