檀家の(は)憂鬱

 平均的日本人は、だいたいにおいて神社仏閣とは縁遠い生活をおくっている。
 僕も例外ではない。神社へ立ち寄る機会はあっても、たいていは都合のいいお願いをするだけである。それもカタチとしてそうするだけだから、信心があるわけではない。まあ、バチ当たりの部類だ。
 寺ともなると、観光の対象かあるいは、最近ではコンサートを聴きに行くかのどちらかだから、やはり信心の対象ではない。
 かように、日常とは乖離した宗教関係だが、我が家はれっきとした浄土真宗東本願寺派の信徒、檀家なのである。ーーそういえばそうだったなぁ。と、12月1日が近づくと、そのことを思い出すのである。
 今日は報恩講。我が菩提寺に帰依する大事な日なのである。
 住職と役僧がやってきて、集落の檀家仲間6軒の仏壇の前で、次々とお経をあげる。そして、僧と檀家が世話役の家にあつまって歓談する。
 以前なら、報恩講特有の料理をあつらえて精進宴をもよおしていたのだが、最近ではその伝統文化も風化してしまった。
 さみしいことではあるが、檀家仲間に再興を考える積極的理由や動機が見つからないかぎり、なかなか元にはもどれない。このような日常の小さなことから、地域の文化は失われていくのだろう。
 しかし、なにも檀家が悪いばかりではない。寺のほうの営業努力も、あまり伝わってこないではないか。
 なかには、積極的に地域と連携したり、文化活動に熱心だったりする寺もあるが、おおむねサービス感覚に乏しい。もちろん観光寺は、またべつの話しだがーー。
 ところが、ひところ前はダサい自営業として独身跡継ぎを輩出してきたお寺関係も、最近では就職難の世相を反映してか、お世継ぎは “僧職系” 男子としてスポットを浴びているという。
 いずれにしても、宗教関係があまりパワフルになるのも困りものだが、お寺関係のニューウェーブに少し期待したいところではある。(^_^;)
(photo:今回はなし)