ボランティアは偽善か?

 「ボランティアをしたことがありますか?」と人にきくと、「ない」と答える人でも町内会のゴミ当番やドブ掃除ぐらいはしたことがあるだろう。
 でも、あれはなかなかボランティアとして認識されていないようだ。どうしてだろうか。
 以前も書いたが、ボランティアの語源は「自主的に行動する(人)」である。したがって、欧米のボランティア先進国では、当然ながら「自主性」が重視されている。
 ところが我が国では、自主性よりも、他人のためにという「利他性」や、金銭の見返りをもとめない「無償性」が尊重されている。
 そのため、「それはあたりまえのことです」というような仕事は、ボランティアの範疇にはなかなか入らないのである。
 もっとも、ゴミ当番やドブ掃除に「自主的」に参加する人はどれだけいるか疑問ではある。それは、本来の意味からすればボランティアとはいえないのだがーー。
 しかしそういう意識が形成される背景には、「お互い様」という思想や「お陰様で」ということばに象徴されるような、相互扶助の文化があることはまちがいないだろう。
 日本では、日本的なボランティアの定義によって、ボランティアをやや特別なエリアに押し込めているきらいがある。阪神淡路大震災をきっかけに、ボランティアは市民の間に根付き浸透してきてはいるが、まだ発展途上である。
 ボランティアに対して「偽善」呼ばわりするのは的外れである。なにもボランティアに限らず、世の中に偽善はいろいろな状況において存在する。
 ボランティアにもとめるその性質がそういう誤解を生むのだろうが、ボランティアはけっしてそうではない。意識するしないは別として、個々のボランティアはそれぞれ明確な目的や欲求を持っている。
 「マズローの欲求段階」に当てはめれば、ボランティアは、第4段階「自我・自尊の欲求」や第5段階「自己実現の欲求」を追求する、つまり欲深い人なのである。
 まあそう考えると、ボランティアは一気に俗世間に降りてくるのではないだろうか。なにせ日本にはこんな必殺のキーワードがある。
 「情けは人のためならず」ーー。(^_^;
(photo:イヌタデ。庭にて)