勇気はもらうものか?

 どうやら「なでしこ」は最後の運に見放されたようだ。アメリカは強い相手だが、場合によっては勝てたかもしれない試合内容だった。
 とにかくメダルは「銀」でも、まさに日本のサッカー界の「金」字塔である。最後まであきらめない粘り強さは、ほんとうにすばらしい。
 思わず、「元気をもらった」「勇気をもらった」といいそうになる。
 しかしそのことば、どうにも落ち着かない。使われすぎて気色悪い、とさえ思う。どうしてだろう?
 おそらく正しくは、「元気が出た」「勇気がわいた」ということだろう。
 してみると、ひっかかるのは「もらう」という受動表現である。「もらう」というのは、対象が物質ならば最もわかりやすいが、電話やメール、指示や応援などの授受が成立するときの受け手にも使う。
 そうすると、授受が成り立っているのかいないのか、というところに「落ち着かない原因」がありそうな気がする。
 選手たちは、ファンや国民に元気や勇気をあたえようと思って競技しているわけではない(おそらく)。つまり、ファンや国民は「勝手にもらっていく」のである。
 だから、しっくりこない、どうも変だ、と感じるのはそのあたりにあるのではないだろうか、と僕は思う。
 「元気をもらう」といういい方は、他人の元気な様を見て自分が元気になる場合もあるだろうから、百歩ゆずって許容してもいいかもしれない。
 しかし、「勇気をもらう」はおかしいだろう。勇気は「心のあり様」だから、選手の心の様子などわかりようがない。
 ただ、こういうフレーズはオシャレだと思われたから広まったと考えられ、化石頭老人のごとく全面否定するわけではない。最初に使った人はなかなかの日本語センスだと思う。
 まあ要は、爆発的に使われ広く知られるようになってしまったから、検証しておかないといけないな、と思ったのである。
 流行をマネするのではなく、もっと自分のことばで表現した方がいいと思うがね。
 それにしても、このクソ暑いのに「ガンバレ日本!」満載のオリンピック報道には、いささかげんなりする。( -_-)
(photo:池塘ワタスゲ立山、弥陀ヶ原にて)