梅雨空を見て眉をひそめる

 集中豪雨による被害がまた続出している。つくづく自然災害が多い国である。明日は我が身、という意識を忘れてはいけないだろう。
 梅雨時期なので、うっとうしく寝苦しい夜もある。昨夜などはたびたび目を覚まし、ぶつ切りの睡眠の間に次々とショートストーリーの夢を見た。
 こういうときは、「まるで走馬燈のように」などという慣用表現を使う場合もあるかもしれないが、僕はこの慣用的な表現がきらいである。
 だいいち「走馬燈」を正確には知らない。辞書を繰れば知識としてわかるが、実際どんなものなのか身体的感覚がない。
 イメージはつかめる。たとえば、パズーが龍の巣に引き込まれて、そこに現れた亡き父(幻)に誘導されるシーンが思い出される。
 すみません。「パズー」とか「龍の巣」とか、何のことかわかりませんよね。宮崎駿のアニメ『天空の城ラピュタ』のワンシーンです。あの場面は、音がなく映像のみで表現されていたのでとても印象的だったのです。
 とにかく「走馬燈」は、どちらかというと極限状態、もしくは感情が激しく揺さぶられたときに使う比喩表現だろう。
 たとえば、「おお! これほどおいしいラーメンに出会ったことがない。過去に食べた、おいしいといわれたラーメンが走馬燈のように脳裏をよぎった」……などという使いかたはしないだろう。
 ついでにもうひとつ。「蜘蛛の子を散らすように」といういいかたがある。
 あれも使えないのである。蜘蛛の子を散らしたことがないのである。カマキリの子なら散らしたことがあるかもしれない。でも、「カマキリの子を散らすように」じゃ具合が悪いかもしれない。「ちりめんじゃこを散らすように」じゃちょっとイメージがちがってくるしなぁ。
 そのような慣用表現はできれば使わないようにして文章を書いているのだが、新聞記事やテレビのニュースを見ていると、「がっくりと肩を落とした」とか「眉をひそめた」とか「足早に立ち去った」とか「元気をもらった」とか「力強く語った」とか、じつに多彩である。ほんとうか? と問いたい。
 なんだか慣用表現が走馬燈のように浮かんできたので、今日はこのへんで。(__;)
(photo:ブナの森。籾糠山にて)