「親友」再考
札幌に住む同年代の知人は、去年ひとりの友人を亡くした。そして、亡くしてからあらためて、自分の大切な友人だったことに気がついたらしい。
彼は亡くした友のことを、親友だったかもしれない、といった。それをきっかけに「親友」というものについて考えはじめた、という。
飲みに行った席で、彼はひとしきり「親友」という友人像について語った。
若者が議論するようなテーマを臆することなく持ち出すところが、また彼のよさであり持ち味なのだが、世俗にまみれひねくれてしまった僕のような者は、そんな奇襲攻撃のような話題について行くことができずに困った。
記憶の底に沈んでいた「親友」ということばを拾い上げ、ホコリをはたいて、ようやく目の前に据えるまでいささか時間を要した。
――親友か……。
振り返れば、若いころもあまりそんなことを考えたことはなかった。友だちは少なかったが、とくに友だちの親疎を意識したこともなかったし、束縛したりされたりも好きではなかった。
もとより、偏見かもしれないが、「親友」ということばに対してはあまりいい印象を持っていなかった。どうしてもベタベタしたイメージが付きまとってしまうのである。俺とおまえは親友だぞ、というセリフほど胡散臭いものはない。
少年マンガに繰り返し描かれていた友情や親友、根性や勝利というものにあこがれはしたが、それはあくまで物語の世界だった。
人それぞれ「親友」の定義がちがうと思う。だから、親友がいるか? と問われてもにわかに答えられない。たとえば、夫婦だって親友と呼べるのかもしれない。
さて、後期中年者たちが「親友」について熱く語る、なんていう図は、はたからみるとかなり異様だろうな、と思う。
でも、もしかしてまたそういうことを考える年代になってきたのかもしれないな、と、居心地の悪さを感じつつ、そういう話題を持ち出してきた件の彼に、少しばかり共鳴するところもあった。(*_*)
(photo:藻岩山からの札幌市街)