働くということ

 依頼された数少ない仕事が進展せず、このごろは滞っている。そのせいか、脳の血液も滞っていて、ビールと飯と漫画にしか反応しなくなってきた。
 原因は、原稿になるデータのやり取りにある。客からの原稿を待っていて、しびれをきらせて問い合わせすると、先方はとっくに送ったという。
 どうもモザンビーク共和国のどこかに配達されたらしい、などという郵便の誤配のようなことはないと思うが、紛失ならあるかもしれない。送ったデータより、そうなった原因のほうが問題である。
 でも、その方面の知識や技能がないかぎり、そんなブラックボックスのなかは、僕などには手も足も出ない。
 こんなときは、ステレオタイプシステムエンジニアの姿が脳裏にうかぶ。つまり、専門用語をふんだんに使い、人を小馬鹿にしたような感じの……。あの手の連中はどうも苦手なのである。どこか人種がちがうような気がするのである。
 彼らはあからさまに人種差別をする。無知な僕などは、いつもかっこうのターゲットなのだ。さながら職務上はまるで、KKKかネオナチのようではある。まあ、それはもちろん偏見だけれども、仕事をはなれれば彼らもきっといい奴らなんだろう(と思う)。
 それで、仕事の話しだった。仕事がなければ楽だろうな、とときどき思うが、仕事をしなければ収入がないし、いやまてよ、それだけではないなと思う。しかしたとえば、収入を得るというのも、仕事をするためのひとつの動機である。
 子どものころは、どうして勉強しなければいけないのかと、長じては、どうして働かなければいけないのかとか、さらには、どうして結婚しなければいけないのかとか、そのときどきに思ってきた。
 うっかり結婚してからは、さすがに、なんで仕事しなければ……などとは思わなくなったが、それは生活のためとか将来設計のため、とかいうレベルの答えとして主に存在していたのである。
 作家、黒井千次の『働くということ』(講談社現代新書/1982年)という本がある。僕は、めったに同じ本を2度読まないが、この本だけは数回読んだ。
 最期に読んだのは、思い出せないほど以前だけれども、この本にはずいぶんお世話になった。
 それで、後期中年労働者として、働くということがわかったかといえば、とてもかんたんにはいい表せられない。でも、たぶん、あの本はもう読まないと思う。(^_^)
(photo:琵琶湖畔。長浜市