桜との付き合い

 坂口安吾の『桜の森の満開の下』を読んだのは、若いころだった。物語のくわしい筋は忘れたが、たしか、ずいぶんシュールで恐い話しだったことだけは記憶している。
 そのころ僕は会社員で、毎年ちょうど花見のころはモーレツに忙しかった。朝から夜遅くまではたらく毎日だったので、当然花見どころではなく、家と会社を往復するだけで精一杯だった。
 そんな生活を10数年つづけていた。だから、花見の時期というと、なんだか暗いトンネルに入ったようなイメージがつきまとい、会社をやめた後もそれを払拭するのに数年かかった。
 一種のトラウマというべきだろうか。そういう状況から解放されてもしばらくは、炎天下で満開の桜を見ることに躊躇した。暗い洞窟に住み器官が退化してしまった生き物のように、陽光を浴び堂々と咲く桜の花を正視できなかった。
 安吾のあの物語のように、人を狂気に駆り立てる桜の魔力を、少し信じてしまいそうになった。
 このところの陽気で、金沢近辺も一気に満開となった。桜の名所、兼六園も無料開放されて、天候にめぐまれた今日などは人も満開状態だった。
 さすがの名勝地、外国人の姿も少なくなかった。姿だけではちょっと見判断できないが、近年慣れ親しんだ言語が容赦なく耳にはいる。だいいち声がでかい。
 中国人が圧倒的である。もちろんここは日本だから、今はまだ「中国人が多かったね」などとのんきに連れ合いと話しているが、そのうち、「日本人もいたね」になったりしないだろうな、とやや心配になったりするのである。
 まあ今日はそういう “お花見日和” だったわけだが、兼六園でも僕が小さいころは桜の木の下で宴会ができたことを思うと、ただ眺めてまわるだけの花見には寂しいものを感じる。
 なにも桜は兼六園だけにあるわけではなく、帰りぎわ園の外の桜並木の下でおっさんがひとり、もくもくと弁当を食べている姿が妙に印象的だった。
 安吾の話しの刷り込みかトラウマかはわからないが、じつは僕は、桜の花が散る情景や散ってしまって地上に敷きつめられた情景のほうが好きである。なんだかほっとするのである。(^_^;
(photo:兼六園周辺)