ボランティアのモチベーション

 あるとき、「がっこう」や「どうぞ」は、どうして「gakkoo」「doozo」と発音するのですか。と、日本語学習入門者から質問された。
 言語というのは一定のルールがありながら、ルール通りにいかない場合もたくさんある。長音のルールもそうである。とりあえず入門者には、語中の「う」(拗音の後ろは除く)の音変化を “ルール” として伝える。
 僕はときどき、ボランティアの日本語教師をしている。中国で学生たちに、仕事としておしえてきた状況とはかなりちがうので、じつは、モチベーションを維持するのはたいへんである。
 嵐のような日々と比べてもいけないのだが、ボランティアにはボランティアの楽しさがあり、おもしろさがある。でも、ボランティアという「甘え」には気をつけている。
 子どもが小さいころしばらく、僕は小学校校下の「子ども会」の世話をしていた。参加して1〜2年はテキトーにやっていた。
 ボランティアだからそんなもんだろう、と思って加わっていたのだが、そのうち子どもたちがまったく寄りついてこない、ということに気がついた。おそらく上から目線になっていたのだろう。
 つまり、子どもたちは見抜いていたのである、このオッサンは味方じゃないということを。恐るべしは子どもたちである。
 それで心を入れかえたのである。子どもたちにとって、相手がボランティアであろうとなかろうと関係なく、彼らは真剣だった。
 そのことを気づかせてくれた。子どもにおしえられるとは、ずいぶん情けない話しではあるが、あれで薄く一皮脱皮したようだ。自分でいうのもなんだが。
 それでまあ、日本語学習者も真剣なのである。まじめな連中がほとんどだが、テキトーに日本語と付き合っている者も、ときどきいる。
 しかし、手を抜けないのがつらいところであり、「こんにちは」は、どうして「こんにちわ」じゃないのですか、などと奇襲攻撃をかけてくるのである。(^_^;)
(photo:福建省祥芝鎮にて)