後始末のことを考えてみる

 ある知人の祖母が亡くなった。事情があるのか、孫にあたる知人が喪主になっていたので、義理を果たすため葬儀に参列した。
 知人とは特別親しい間柄ではない。だから家族のことは知らない。ばあちゃんがいたこともはじめて知った。でも、死者をとむらうために出かけた。
 ある種の “頼母子講” が存在しているからである。地縁血縁社会の互助システムの名残。葬儀という、緊急な物いりに対する相互救済の輪。
 現代は、専門業者が運営するセレモニーホールを舞台に互助システムが回転していく。まったくビジネスに組み込まれてしまっている。
 ショー、というとしかられそうだが、葬祭ビジネスはパッケージされ、一種のショー化しているのである。しかし、「無縁社会」が広がりつつあるこの国では、そんなショーも徐々に衰退していくのかもしれないが。
 たしかに、わずらわしいことはみな業者がやってくれるので関係者は楽である。しかし、亡くなった本人の気持ちがどこか片隅に追いやられ、生きている者たちの都合だけで、人生の締めくくりがシナリオ通りに消化されていく。
 それでいいのだろうか、とときどき思う。
 それを嫌って最近では、自分の後始末を自分で取りきめて亡くなる人も増えてきたようだ。悪いことではないと思う。残される(予定の)遺族の了解さえ得られれば、それは本人にとって幸せなことだろう。
 しかし、互助システムの連環のなかで、それを断ち切るのはなかなか勇気がいることである。死に行く者より残された者の方が困惑するだろう。
 死んだあとはこのようにしてくれ、と家族にわがままな希望を伝えのはかんたんだが、その願いをかなえてもらえるかどうかはわからない。たとえば僕のプランは、ただちに家族に却下されたことがある。
 家族の都合のいいように処理してもらう。それがいちばんいいのかもしれない。
 ――などと、のんびりしたことを書いていると、3.11で突然人生に幕を下ろされた人々や遺族のことを、ふと思ってしまう。(__;)
(photo:福建省安海鎮にて)