後始末考

 近所のおばあちゃんがお亡くなりになった。同じ班の家庭なので、慣例どおり葬儀までのあれやこれやの手伝いをした。
 今年はこれまで、我が町会から十を越える葬式を出したそうである。葬儀担当役かと、我が町会長は困惑しておられた。世帯数が多いので毎年いくつかの弔いはあるが、どうしたことか今年は近年になく多い。
 もしかして放射能のせいだろうか、などと考えてみるが、考えるまでもなく、あれはただちに人体に影響があるわけではないらしいので、その線はちょっとムリがあろう。
 近年の葬儀や告別式は、ほとんどその手のセレモニーホールで行われる。システム化されているので、遺族側も参列者側も非常に楽であるが、はたしてそれでいいのだろうか、とふと思う。
 お寺や自宅で執り行っていたころとはちがって、ずいぶん便利な世の中になったものだ、と思う人も多いかもしれないが、はたしてそれでいいのだろうか、とふと思う。
 なら自分はどうしてほしいのか、とふと思う。
 ふと思ってばかりなので、そろそろきっちりと意見を述べたい……とふと思う。
 最近はいろいろなバリエーション、というか、生前に自分の葬儀をプロデュースしてしまう人がふえているそうである。自然葬も人気があるようだ。でも、法律的にはどうなのかな、と一方では思う。
 セレモニーホールでマニュアル通りにシステマティックにやられるのも、世の中からの消え方として自分はそれでいいのか、と考えるのである。
 山が好きだったので、白山の頂上に50g、槍ヶ岳の頂上に50g、尾瀬ヶ原の中田代に50g……骨を粉にして撒いてくれ。あ、そうそう、アンコールワットの第一回廊と第二回廊のあいだの庭にも少し……というと、そこだけ家人は反応を示して、目を輝かせる可能性がある。
 死んでしまえば、あとは家族にまかせればいいのかな、とも思う。しかし、やはり自分の後始末は自分で段取りをつけておきたい、という気持ちもある。
 僕の家系を振りかえれば、老害をまき散らすところまで生きられない可能性が高い。まあ、老害の定義は他人の評価によるのでわからないが、いずれにしても順当にいけば、最期まではもう少し悩む時間がありそうである。(¨;)
(photo:ネパール、バクタプルにて)