「申しわけない」とは何か?

 街では早くもジングルベルの声がきこえる。12月に入ると一色になる。これも内需のひとつかと思うけれど、どこを向いてもクリスマスなんて、日本はつくづく変な国だと思う。
 震災や原発で被災した人たちは、どんな思いで年の瀬を迎えるのだろうか。故郷をはなれて暮らしている人々は、ずいぶん辛い冬になるのだろう。
 事故原発から遠くはなれたところに避難や移住した人のなかには、ときどき、「自分(あるいは家族)だけ “逃げて” 申しわけない」と話す人がいる。そして一方で、そんな故郷を去っていく人を冷ややかに見送る人もいる。そういう状況は少し悲しいが、その感情は対になっている。
 僕は、震災に遭わなかったし、福島県より安全なところにいるので、もちろん被災した人や避難してきた人と気持ちを共有することはできない。
 でもやはり、その双方の気持ち、とりわけ「申しわけない」という気持ちが気になってしょうがない。
 先日、新藤兼人監督の『一枚のハガキ』(2011年)という映画を見た。先の戦争によって翻弄された家族の末路が描かれていたが、そこにも「申しわけない」という気持ちが、何の落ち度もない庶民の口から発せられていた。
 終戦後、命からがら復員してきた男が、死んだ戦友からの約束をはたそうと、その戦友の妻を訪ねたときに口にしたことば。そしてまた、なぜ夫が死んであなたが生き残ったのかと、夫の同僚を責める、残された妻。
 クジ引きによって偶然生き残った男は、運がよかっただけかもしれないが、その男にしても、戦争からもどったみると我が家庭は崩壊していた。
 自分の意思で福島県から逃れた人たちと、他人に運命を握られて戦場へ行った兵士たち。そのちがいはあるのかもしれないが、「申しわけない」の底流にひそむ気持ちは共通しているような気がする。
 それは、日本人特有のものだろうか、あるいは人として共通するものなのだろうか。
 少し状況はちがうが、またあるひとつのシーンを思い出す。
 『カムイ伝(第一部)』をはじめて読んだのは、まだ中学生のころだった。そのころはまだ、あの大河ドラマの背景に横たわる深いテーマを理解できなかったが、そのシーンはその後も妙に記憶に残っている。
 物語の終盤、農民のリーダーだった正助という青年が、一揆の首謀者としてただひとり処刑されずに、村に戻されるシーンがある。ところが、村人はあたたかく迎えるどころか、なぶりものにして彼を責め立てた。
 権力側の策謀によって生かされただけの正助にしてみれば、「申しわけない」気持ちでいっぱいだったはずである。しかし、舌を抜かれていた正助には、なすすべがなかった。
 ややもすると、震災や原発事故のことを日々忘れてしまいがちになる。被災者のために、遠くにいてできることは限られる。
 今のところこれといった汗を流して来なかった僕などの者は、少なくとも福島のことは毎日忘れずに生きていきたいと思う。(^^)/
(photo:初冬の庭にて)