立場が変われば見えるもの

 言語をおしえる教師の本分としては、声が大きくはっきりしている、板書の字が正確である(きれいであればなおいいが)、授業にメリハリがある(退屈させない)、いつも機嫌よく接する、などということが即座に思い浮かぶ。
 そして何よりも大切なのは、教案をつくり、学習者にその日何を届けたいか明確にしておく必要がある。
 学習者の側から教師を観察する、というのは新鮮な体験である。教師の向かい側に座り、学習者となったのは、日本語教師を始めてから初めてである。
 我がクラスにやってくる教師のひとり、G老師は、僕が考えている言語教師像からすれば、まったく失格である。
 じつは、中国で中国語学校をえらぶときに、中国生活が長い同僚の先生から注意をうけた。この国の中国語学校は、玉石混淆である。というより、“玉” を見つけるのはとてもむずかしい、と。つまり、ちがう目的(カネモーケなど)で学校を運営している場合も多いらしい。
 それともうひとつは、教師の質である。僕が知っている日本語教師は、おしなべて授業の準備(教案)に惜しげもなく時間を費やす人たちがほとんどだった。言語教育は、それがスタンダードだと思ってきたが、そうでもないようだ。
 日本人と中国人の、仕事のとらえ方のちがいは当然あろう。教授法のちがいもあるだろう。労働条件もからんでくるだろう。覚えが悪い生徒もからんでくるだろう。
 しかし、直接法で言語をおしえる教師としては、共通のものがあるはずだーー。
 そう思ってはみたが、なにせ飛ぶ鳥を落とす勢いの国のことばである。いやならやめて、どんよりした日本へ帰ってチマチマ生きなさい、といわれるだろうね。
 中国語を話す人は世界一多い。まあ、これは当然だ。でも、世界での普及度とはまたちがう。日本語を話す人だって、フランス語やドイツ語を話す人より多いことにはなっている。
 今日は多少グチが入ってしまった。僕の空っぽ頭は劣化したゴムかもしれない。あまり伸ばさないようにしたほうがよさそうだ。(^_^;
(photo:唯一残る、明朝の古城壁)