後ろ髪ならまだあるが

 なかなかスイッチが入らないな、と思いながらホテルに着いた。
 空港からの地下鉄の喧噪から解放されたと思ったら、粘りつくような通りの蒸し暑さにおそわれた。なだれ込むように部屋に入ると、もう動くのがいやになった。
 中国モードのスイッチが入らない理由はたくさんありそうだった。日本に残してきたあれやこれやの問題。小さなものから大きなものまで、とてもこの一ヶ月半では処理しきれなかった。
 長男としてのものや、父親としてもの、あるいは自治会の一員としてのもの。そして、夫としてのもの。
 そういう有象無象を、後ろ髪を引かれる思いで残してきた。ふしぎなもので、一ヶ月半前中国からもどるときにも、後ろ髪を引かれるものがあった。
 もちろんそのふたつを比較することはできないが、定住すれば、去るときに髪をひっぱるものが必ずあらわれる。港々の女なら演歌にもなりそうだが、僕には縁遠い。
 もうひとつ、意気が上がらない理由は……わかっている。今回は仕事ではない。勉強である。経済的にいえば、マイナス好意である。
 したがって、周囲への説得性には欠けるのである。「今さら?」「勉強してどうするの?」「意味わからん」「上海? いいねえ自由で」「子ども片付いたん?」
 などなど、すべて箒で掃いて捨てた。なぜ箒なのか、ここではいわない。
 さて、上海である。泉州とは比較にならないくらい、巨大で猥雑だ。自分が小さくなったような感覚だ。
 物価も高い。泉州の一年でも物価の上昇は実感したが、ここではちがうレベルである。
 例をあげれば、泉州に赴任したときの青島ビールは一缶3.4元ぐらいだった。しかし、一年後の先月は3.9元になった。ところが、ここ上海では今4.9元である。
 デフレの日本とはちがい、ここではみんな上を向いている。希望を持っているのだろう。しかし、希望のない国からやってくると、そのパワーになかなか合わせられない。
 困ったことに、一ヶ月半の時間は、スイッチが入ることを邪魔してしまうのである。(/_;)
(photo:我田。まもなく刈り取り)