昨今の髪事情

 先月、帰国してまず向かった先は床屋だった。空港へ降り立って直行したーー。
 ーーなんてことはない。自分の髪を切ることに、そんな緊急性はないのである。床屋へ行ったのは次の日でした。
 職場の近所の床屋でいつもカットしてもらっていたのだが、日本のように、まあようするに、客の要求と頭の形に合ったスタイルにしてくれないのである。
 こちらの語学力もあるだろうし、理髪師のテクニックもあるだろう。しかし、なにぶん安い(10元)から、そんなに高い要求を出しても却下されそうだ。
 もちろん今日びは、街(泉州)の中心部へ行けば、きめ細かな対応をしてくれるところもあるのだ。しかし、こちらの要求を理解してもらうようなコミュニケーションがとれないから、結局、おおざっぱな近所の床屋になってしまうのである。「短くしてね」「あいよ」、で終わりなのだから楽であるが。
 で、どうして帰国してすぐ床屋なのかーー。
 いささか個人差はあるものの、男はトシとともに、頭全体における髪のボリュームに濃淡が発生する。中国の床屋では、単純に髪を短くするだけの繰り返しだから、その濃淡がどんどん顕著になるのである。僕の場合は、中国の “10元理髪店” にそのまま通っていると、毛沢東のようなスタイルになりかねないのだ。
 それはそれで彼の国ではありがたいことなのかもしれないが、正体が日本人だとバレて、石持て追われる身となるのも困るので、早急に毛沢東からはなれることにしたのである。
 床屋で髪を切るというのは、客と理髪師が一定時間至近距離で濃厚な時間を共有する、ということである。中国の、僕が通っていた床屋程度なら、せいぜい15分ぐらいの気まずさに耐えればいいのだが、日本ではそうもいかない。
 だから、昔から「床屋政談」ということばがあるくらい、そこでのおしゃべりは楽しいものだったのだろう。しかし、床屋に限らないが、昨今はワリと親しい間柄でも、毒にも薬にもならない会話をかわす場合がほとんどだろう。できるだけ自分の主義主張や考えがはっきり露呈しないように、いいかえれば正体がバレないように、話題の上澄みだけで終始してしまうのである。
 日本人の特性だろうか。いろいろなところで “自主規制” してしまう。目立つことを嫌う。合わせてしまう。和を大切にする。
 裏を返せば日本人のいいところかもしれないが、3.11以降、そういうことを少し改めていかないと世界から取り残されるような気がするのである。(-。-;)
(photo:奈良、唐招提寺にて)