玉手箱のなかは?

 竜宮城へ行ってきたつもりはないが、なんだかちがう日本にもどって来たような感覚が、どうしても取れないでいる。
 いくぶん高揚して帰って来たような感覚もあった。それは、異国の地で目まぐるしい毎日をとにかくやり過ごした、という自負と充実感の発露だったのだろう。今思うといささか恥ずかしいが。
 抜けたパズルのピースがぴたりとはまるように、久しぶりの日本の空気は身体に合った。放射能という、胸いっぱい深呼吸することをためらう気がかりがあったにせよ、である。
 ところが、はまったはずのピースはどういうわけか窮屈で、ゴリゴリととなりのピースと摩擦し合っているような感じだ。つまり、多少居心地の悪さを感じているのである。
 中国のハイテンションな街や人々、そして仕事や生活の刺激の強さからの落差。その虚脱感。窮屈で暮らしにくいと感じつつ、不平不満をいっぱいため込んだ日々の生活が、くるりと反転して懐かしいと思うような気持ちの変化。
 そんな幽体離脱したような時間が、最近自分のなかで流れているようだ。
 さて、竜宮城から帰った浦島太郎はいったいどうなったのだろうか。後日譚には諸説がある。自分と両親の墓を訪ね、鶴になって飛び去ったとか、すぐに死んでしまったとか、など定説がない。
 楽しかった竜宮城へもどればいいのかもしれないが、自分を運んでくれる亀を見つけるのもたいへんだろう。子どもたちにいじめられている亀、という付帯条件もある。
 よしんばそういう亀がいて、首尾よく竜宮城へ舞いもどったところで、乙姫たちがみな婆さんになっている可能性もあるし、そうなると竜宮城は後期高齢者のサロンである。
 それはそれでいいのかもしれないが、おそらくそんなうまい具合にめでたしめでたしとはいくまい。
 話しをもとにもどすと、その自分のなかの感覚の “ズレ” は、たぶん身体にこの一年という異質の物語が入り込んだせいだろうと推察する。
 彼の国の人たちからは、玉手箱のようなものをたくさんもらった。僕はみんな開けてしまった。そのせいなのか、最近白髪が増えたような気がする。(^^)
(photo:上高地横尾林道にて)