安心がほしい

 いろいろ調べたけれど、どうやら逃げられそうにもない、ということがわかった。
 放射能で汚染された牛肉が問題になっているが、放射能の放出が終わったわけでもなく、これからも引きつづき大地に堆積し、さらに広範囲に拡散する。
 安全な食料を求めてもおのずと限界がある。僕たちは、そのことを理解して引き受けて行かざるを得ないだろう。
 しかし、ほんとうにくやしい。どうして僕たちは、お湯をわかすためにあんな複雑怪奇で危険な装置をつくって電気をつくらなければいけないのか。たかが電気のために、である。お湯をわかす方法など他にいくらでもあろう。
 長年チェルノブイリに注目し、わずかながら支援もしてきたが、彼の地の厄災は終わったのではなく、まだつづいているのである。逃げ場がないこのせまい日本で、これからチェルノブイリのようなことが起こるのかと思うと、耐えられない思いである。
 子どもたちには陰鬱な未来を背負わせてしまったし、若者たちにしてみれば、自分の人生設計がおおいに狂わされたような感じだろう。
 もう答えは出ているのである。第二の福島が起これば、日本と日本人は世界の孤児になってしまうのだ。そういう恐れがあるなかで、なにかに一所懸命になったり、がんばったり、夢を見たりできるだろうか。
 目標に向かうためには、まずそういう大きな障害は取り除くのが、正常な考え方ではないだろうか。
 情報は氾濫しているし、何が正しい情報か見極めるのはむずかしい。けれど、安全な原発などはない、ということと、放射能は人間の手で克服できない、ということを忘れてはいけない。
 涼しさを求めて、今年は久しぶりに夏山へ行こうか、と思っている。中国で体力を消耗し、少しばかりたまっていたお腹の脂肪も使い果たした。
 ならば比較的楽な山行を、と思って尾瀬を頭に浮かべたが、汚染地図を見てみると、そのあたり一帯はかなりの量の放射性物質が流れてきて降り注いだようだ。好きな山域だけに心が痛む。
 しかし福島県の、より事故原発に近い地域ではたくさんの人たちが生活をしているのだから、そのことを想像するとほんとうに言葉が出ない。(-_-;)
(photo:ニッコウキスゲ。栂池にて)