食べ物はどこから来るのか

 スーパーの食料陳列棚が空っぽになっているのを見ると、ちょっとぞっとしないか。震災と原発事故直後のテレビの画面には、そんな状況が映し出されていた。
 買いに行けば食べ物はいくらでもある。それが幻想である、というのは薄々気がついている。ジワジワと食料不足はそこまでやってきているのである。
 誰が食糧をつくっているのだろうか。誰が食料をまかなっているのだろうか。僕たちは、そんなことはあまり考えずに、あるいは、考えないようにして日々暮らしているような気がする。
 つまり農業のことである。国が発展し豊かになると、農業をやめてしまう人々があらわれる。誰もが、つらい仕事だと理解しているからだろう。
 しかし、誰かが農業をつづけないと、僕たちは生きていくことができない。今食べている食事に使われている材料は、いったいどこから来ているのだろうか。と、ときどき考える。
 じつは……というほどあらたまることもないが、僕にはずっとある種の後ろめたさがある。それは、心のなかにシミのようなものを作って、なかなか消えることがない。
 農家の長男として生まれながら、農業をしなかったということである。7年前父が病に倒れてできなくなったときに、米作りを継ぐことを決断しそのことを口にしてみたが、おまえには無理だ、と即答された。
 確かに自信はなかったが、迷わず返事がきたのにはおどろいた。結局、父の遺言どおり農機は処分し、米作りは大規模農家に委託した。
 もっとも、引き受けたところで、採算がとれるような田畑があるわけではなく、いずれにしろ赤字経営は必至だった。
 しかしそうした、代々与えられてきた、食糧をつくるという人間の営みに不可欠で崇高な仕事を放棄したことには、やはりいつまでも心が痛む。
 かつて集落の酒の席で、ベテラン農家の古老に「もう少し楽に農業ができればなぁ」と冗談めかして話すと、古老から「田んぼ(農業)の仕事に楽なものはない」と一喝された。(;。;)
(photo:西湖公園にて)