バスでの百態

 バスが急に停車した。と思ったら、ドアが開き女車掌が勢いよく飛び出していった。何かトラブルでも、と車掌の行方を追っていると、彼女は道ばたのマントウ売りの屋台にかけ寄った。
 善良な僕は、車掌の行動に注目した。しかし彼女は、屋台についていた数人の客に交じって、マントウを買い求めただけだった。
 もちろん彼女は悪びれもせず、笑みさえうかべてバスにもどってきた。
 携帯電話はどこでもバリアフリーである。騒音でうるさいバスのなかでも人々は平気である。メールなどという七面倒くさい手段より、みんなずっと好きである。
 直接会話は、コミュニケーションのレベルでいえばメールより上位だから、それはそれで悪いことではない。しかしバスの場合、車掌の携帯電話はいかがなものか、と思う。
 電話しながら切符を切り、停車とか発車とか、電話中に運転手に大声で知らせる。器用なことである。当然私的な用件だろう。
 これはまたあらためて書きたいネタだが、中国人に公私の意識はないようだ。極端にいえば全部が私。万里の長城の石を持っていって自分の家の壁にしたりするのだから、まったく自由である。
 始発の停車場で同じ方面行きのバスが何台か止まっていたので、ドアの開いているやつに乗り込んだら、べつのバスが先に出発した。というのもしょっちゅうだ。
 客が乗っていようといまいと、運転手の都合で各自勝手に発車する。もちろん時刻表はない。
 そういえば、バスのルート変更にもかなりの頻度で遭遇する。きっと、渋滞している道を避けたりするのだろう。まったく自由だ。乗客も心得たもので、何もいわない。
 僕はこのまえ大幅なルートカットにみまわれた。夜市内に向かうバスに乗っていたら、最後は乗客が僕ひとりになった。すると、車掌は途中で下車し(たぶん帰宅)、そのバスは終点まで行かずに、途中にある車庫に入っていってしまった。
 おまえの目的地はここから歩いてもう少しだからここで降りろ、と運転手にいわれ、放り出された。……これも自由? らしい。
 社会的弱者に席を譲りましょう。と、バスの車内にはある。優先席もちゃんとある。実際そういう意識は乗客も高い。乗務員の心得も表示してある。
 しかし、自由な乗務員は携帯片手にタバコを吸いながら、自分の都合で、乗客のことを考えない荒っぽい運転をする。どこか矛盾している。
 まあ、これを変えるのは大変そうである。公私の壁をつくるのは、中国人のアイデンティティにかかわる問題に抵触するはずだから、ことはかんたんに進まないだろう。(-.-#)
(photo:承天寺にて)