何がほしい情報か
似て非なる、といわれている日本人と中国人。
ところが、お上をあまり信用していないところは、ワリと似ている。しかし、そんなお上にワリと従順なところもまた、ちょっと似ている。
未知のゾーンの被災体験だけに、お上のほうも混乱しているのは理解できる。しかし、正確な情報を早く、できれば多く流すくらいはできないものだろうか。
こんなところで、物事の決定に時間がかかる日本のシステムどおりにやられては、今一刻をあらそう人たちはたまったものではない。
緊急時に、ほしい情報や知りたい情報を得るのはむずかしい。ひとつの情報で、人は安心したり納得したり、行動したりする。それは、情報の量と質、提供するメディアしだいである。
事故原発の、最前線の作業の様子が徐々に報道されるようになった。安全だ、安全だ、といわれている中身は、じつはとてつもなく危険だ、ということもわかってきた。
正確な情報さえわかれば、たとえ危険が迫っていても納得して行動できるはずである。
世界中が固唾をのんで見守っているなかで、情報提供は、当事国日本の責務だろう。放射性物質は地球市民全体に影響をおよぼすものだけに、日本の信用にかかわる。
放射能の危険にさらされながら作業する人たちの様子が伝わってくるにしたがい、安全地帯に身を置く者も、やはり拳を握りしめ応援しないではいられない。
映画のなかの台詞ではないが、人間が “ホンモノ” と “ニセモノ” の2種類に分けられるとすれば、彼らはまぎれもなく本物である。
子どもたちの未来をかんたんに打ち砕くこんな危険なものを、安全だ、と強弁し推進してきた政府や電力会社は今後窮地に立たされるだろう。
もっとも、そんな政府をつくってきたのは国民だけに、僕たちの方も考えなおさなければいけない。
それにしても、この危機に際して国会議員の姿があまり見えないのは、気のせいか。個々に支援行動を起こしておられればそれでいいのだが。(*_*)
(photo:スモッグと塵の泉州市街)