核の恐怖

 20代のころ、広瀬隆の『ジョン・ウェインはなぜ死んだか』(1982年/文藝春秋。のちに文春文庫)を読んで衝撃を受けた。
 西部劇のファンだったこともあり、てっきりハリウッド・スターの裏話しのたぐいか、と思って軽い気持ちで本を買ったのだ。
 ところがその内容たるや、アメリカのネバダ州で繰り返しおこわれた核実験の影響で、がんや白血病で死んでいった、ハリウッドの映画関係者を追ったノンフィクションだったのだ。
 あわてて同じ著者の『東京に原発を!』(1981年/JICC出版。のちに集英社文庫)を読んだ。
 核に対しては、更地に近かった僕の頭のなかには、当然のことながら反核の旗がバタバタと打ち立てられた。
 今でも覚えているが、チェルノブイリ原発事故は1986年4月26日だった、と思う(日付はあいまいかもしれない)。おおげさにいえば、あのとき世界がひとつ核の扉を開いたように感じた。
 人からは嘲笑されるかもしれないが、まもなく僕は家族が口にする食品に注意をはらうようにした。つまり、あの事故で放射性物質が降りそそいだ地域でつくられた食品、あるいは原料を使った食品には手を出さないようにした。その多くはヨーロッパだった。
 神経質なまでに徹底的に、なんてことは性格上できなかったが、子どもが小さかったこともあり、それでも数年はそういうことを心がけた。まあ、いちばん困ったのは自分が飲むビールだったのだが。
 大人たちがつくった、悪夢のような核施設。チェルノブイリでも、たくさんの子どもたちが核の犠牲になった。そして、8000km離れていても核の影響はそばまでやってきていた。
 鎌仲ひとみがつくった映画『ヒバクシャ』(2003年)に、その事実は述べられている。チェルノブイリから10年後、日本海側の各地で乳がん患者が急激にふえた、という事実。それは、あの事故の影響以外考えられない、と。
 以前テレビで、福島原発の格納施設建屋の外観塗装をはじめて見たときには、なんともいえない気分になった。建屋自体がすでに異様にもかかわらず、建物がはじけ飛ぶようなイメージの、あのデザインにはおどろいた。
 それが今現実となった。最前線で命を賭してはたらく作業員の方々には、ほんとうに頭が下がる。
 安全地帯からエールをおくる以外手立てはないが、一刻も早く核の恐怖から解放されることを願っている。(-_-;)
(photo:神仏にでも祈りたい気分である。九日山にて)