当世中国煙草事情

 おどろいたことに、路線バスの運転手が煙草を吸っていた。もっとも、乗客もまばらで、終点が近かったせいもあるかもしれない。
 窓から痰を吐く運転手はけっこういるが、さすがに煙草は見たことがなかった。だいたい、一応は車内に禁煙と書いてあるから、そのへんは守っているようだ。
 喫煙者にとって中国はまだまだ天国だろう。歩行者が虐げられているように、吸わない者はただ黙って耐えるだけである。
 なにも厳しく取り締まれとはいわない。喫煙者にだって権利はあるから、それは僕も認めたいと思う。しかし、分煙が進んだ国からやってくると、どうにも閉口するときがある。
 かつては僕も喫煙者だった。子どもたちからは、臭いといわれた。あれだけでかなり父としての評価を下げていたような気がする。自分では気がつかなかった。
 ところがやめてみて、全身から発するあの臭さがはじめてわかった。というか、敏感になったというべきなのか。
 煙草は9年前にやめた。よくやめられたね、といわれる。健康のためとか、病気になったので、という理由ではなかった。かんたんにいえば、もう煙草はいいや、という内なる声にしたがったのである。
 旅行先で煙草を吸っていて、突然そんなことを思ったのである。体調が悪くて煙草がまずかったわけではない。旅先だから、開放感からむしろ煙草がおいしかったほどだ。
 しかも、その後はそんなこともすっかり忘れて、毎日マイルドセブンをせっせと灰にしていた。
 ところが、買い置きしておいた最後の箱の最後の一本を吸い終わったときに、またそんなことを思ったのである。もう煙草はいいや、と。
 ウソやろ? 後付けやろ? といわれるが、ホンマなんです。ふしぎなくらい。
 もちろんしばらくは、飢餓感や煙草の幻覚になやまされはしたが、首尾よく煙草とは縁が切れた。やめてみるとずいぶん楽だった。一部の同好の方々からは、多少白い目で見られはしたが、煙草にまつわるもろもろの雑事からは解放された。
 さて、中国である。煙草と痰から解放されるのはまだまだ遠いと実感している。(+_;)
(photo:雨上がりの寺院境内から)