言語について思ったある夕べ

 外国人に街で、英語で話しかけられたらどうしょう。なんて、中学校高校時代に思ったことはないだろうか。
 考えてみればおかしな話しである。実際にそういう外国人(とくに英語話者)はいるだろうが、ここは日本語圏(日本の話しね)である。
 僕たちはふつう外国へ行くときは、少なくとも地球の歩き方などを片手に、その国の基本的なことばぐらいは勉強していくハズだ。頭が硬化したおとっつぁんでも、会話の本ぐらいは持って行くハズだ。街歩く人をつかまえて、「ビールが飲みたいんですが……」などといきなり日本語で聞いたりすることはあるまい。
 状況例が特殊でした。すみません。でも、外国人に英語で話しかけられても、あわてふためき狼狽することはまったくないのである。日本語で対応すればいいのである。英語がちゃんと話せる人は、もちろんそんないじわるをする必要はないのですが。
 中国でも同じこと。こちらからいきなり「トイレはどこですか?」と日本語で聞いたりしない。とくに、このようなサバイバル語は必修である。
 それはさておき、この地でそんなことをしても、相手の立場に立って理解しようという気持ちなど皆無だから、石持て追われるのがオチである。
 ましてやこのS市は閩南語圏。普通話(共通語)を話す人にもなまりがある。たとえば、「おいしい」は普通話(共通語)で「好吃(ハオチー)」というが、普通話を話す人に「ハオツー」だといわれ発音を直される。もっとも、僕の普通話の発音も怪しいもんだが。
 授業のときそんな話題でひとしきり雑談したあと、「ほんじゃあ、次にいきましょう」といったところ、学生に「先生、閩南語じょうずですね」といわれた。「ハオツー」はさらに閩南語では「ハオジャ」というらしい。ほんじゃがハオジャに聞こえる、ということだ。
 言語というのはおもしろい。しかし複雑怪奇である。しかし、この町で生の普通話の勉強をするのは、とても難しそうである。
 今日はここで終わります。ほんじゃ。(^^)
(photo:さら地に残された寺)