ドラマはいつも裏通りに

 そういえば、あの人は今どうしているのだろう? と、思ったりすることがある。
 「気配り」の人といえば、ある年代以上にとってはちょっと懐かしい。気配りは空前のブームになったけれど、ことばは死語となった。今は使うことさえ恥ずかしい。
 たとえば、この町の裏通りを歩くと、必ずといっていいほど渋滞に遭遇する。朝夕はまちがいなくあちこちでやっている。それを渋滞といっていいのかわからないが、つまりは車、バイク、三輪リヤカー、人などが渾然一体となり、クラクションや怒号や痰が飛びかう阿鼻叫喚地獄のことである。
 そこに譲り合いの精神など、かけらもない。しかも、通りは生活の場だから、いろいろなものが遠慮なく置かれているし、バイクなどを寄せて駐めるということもない。
 日本人なら、多少余裕のあるところで対向車を待つだろう。しかしそんなことをしても、ここでは後ろから来た車が追い越していくだけだ。だから多くの場合、路地のせまいところでにらみ合いになる。そしてそこへ、バイクやスクーターや人やもろもろが、堰にゴミがたまるように殺到する(比喩が失礼だが、僕もゴミの一員)。
 脳裏に「気配り」ということばが浮かぶのは、こんなときである。しかしこの国では、その手の本を書いたところで売れはしまい。気配りどころか、車もバイクもスクーターもみんな「だろう運転」である。
 日本では、運転免許の書き替えのために免許センターへ行くと、気が滅入るような事故のビデオを見せられ、警察から天下った指導員が、善良なドライバーに向かって犯罪者にさとすように説教なさる。
 天下るなら、ぜひ中国の公安に再就職してもらいたい。優秀な日本の警察官は、きっと活躍の場があるハズだ。手はじめの仕事は、やはり「気配り」の啓蒙だろうか。
 中国人との個人的な付き合いにおいては、彼らもたいへん気をつかうし、一度信頼関係をきずけば日本人以上かもしれない。ただ、国民性や風土、文化がちがうので、日常の行動様式はちがって当然である。
 僕は、ここでは車を運転することはないので、現出するそんな混乱を、申しわけないが興味深く傍観している。こんなとき、異邦人の立場は便利なのですムニダ。(O_O)
(photo:喧噪とは無縁な光景。郊外の村にて)