本をめぐるある種の儀式

 まずは、品定めをするようにじっくりとながめる。そして、おもむろに腰巻きをそっとはずす。
 すみません。これ本の話しです。腰巻きというのは、新刊の表紙カバーのうえにさらに巻いてある、あの半ピラの宣伝用カバーのことです。
 つづき。さらにカバーも取りさって裸にする。裸の姿を見たらカバーを元にもどし、本文をパラパラとめくる。そしてそのとき起こる風の匂いをすばやく鼻腔におくる。次に、本文に使われている紙をさわりながら、おしりにある奥付を見る。本の話しですよ。そして、本文にもどり、組まれている活字の種類をたしかめ、1ページ分の行数を数える。場合によっては1行の字数もカウントする。
 これが、僕が新しい本を手にしたときの儀式である。もちろんこんなことは本屋ではできない。代金を払って、正式に身請けしてからの話しである。
 家に帰ってこっそりとやる。蝋燭も仮面も必要ない。注意してはいるが、ときどき家人に見られる。そのつど、夫として、父としての威厳が、音もなくなくなっていくのを感じる。
 それほど僕は活字中毒(フェチ?)なので、当面禁断症状が起きないようにと思って、けっこう本を持ってきた。
 ところが、こっちに来る半月ほどまえから、ほとんど本を読まなくなってしまった。というより、読めなくなってしまった。
 どうしてそうなってしまったのか、自分でもわからない。おそらく気持ちに余裕がなくなってしまったのだろう。あるいは、いろいろ考えることが多くなって、本を読むことを担当している脳が、そっちにかり出されてしまったのではなかろうか。主人に断りもなくひどいことだ。まあ、じつに容量の小さい脳だ。
 だから今は、持ってきた本がかたわらにあるけれど、ドキドキしたりときめいたりはしない。本屋もないので、毎日パトロールに行くこともないし。もちろん、ここにはここの本屋はあるけれど、日本の本屋と少し様子がちがう。
 かつて日本は出版文化が隆盛をほこり、一時代を築きあげてきた。ところが、今や出版は右肩下がりのマイナス成長である。電子書籍の登場で、印刷物としての本も今後はさらに衰退していくことだろう。
 中国はおそらく、出版文化が花開くまえに電子書籍の時代に突入するのではあるまいか。ITの発達で先進国が段階的に歩んできた道を、携帯電話のように、ショートカットしていくのだろう。
 しかし毎日暑い。暑いなんてもんじゃない。日中のひなたの体感温度は軽く40度はこえる。朝、宿舎から学校までの200mでもうぐっしょりである。
 そうだった。少しは仕事のことも書かないとな。(-。-;)
(photo:仏教博物館への道)