エントリーの法則
おそらく狙いをつけて近づいてきたのだろう。ほかにもたくさん客はいただろうに。
「タクシーをさがしているんだろ?」
男は、いくぶん勝ち誇ったような表情をして、商売の話しを切り出した。
想定内のことだった。しかし、上海浦東空港で航空機材不備のため4時間も待たされた身にとっては、一刻も早く今夜の宿にたどりつきたいところだった。
だから、勝負ははなからついていた。上海で、中国モードへの気持ちのスイッチを入れ忘れていたのも原因だが、深夜に近い時間帯に中国のローカル空港にいきなり降り立てば、暗闇のなかから得られる情報などたかが知れている。
「100元でどうだ?」
それがこの街へのエントリーの条件だった。男がほくそ笑むような料金にまちがいないだろうが、たたかう気力は僕にはなかった。
アジアを歩くと、日本人は日本人であることを見破られることが多いときく。僕などはとりわけマヌケでスキだらけな顔つきをしているにちがいないから、いともかんたんだろう。身に危険がおよぶほどのだまされ方をしたことはないが、ずいぶんと現地の連中には経済的援助をしてきたものだ。
彼らもそれが身すぎ世すぎだろうから、だいたいモチベーションがちがうのである。まあ、札束で頬をひっぱたくわけではないから、罪は軽いだろう。
それにしても、このまとわりつく熱気はうっとうしい。カラータイマーがまた速く鳴り出した。エネルギーが消えかかっている。ねっとりとした夜にただようアジアンな外気は、消耗した身体にはわるい。
車の窓外をすぎ去る景色を見ながら、僕は少し後悔した。
もしかして甘くみていたかもしれない。このアジアの、おそろしくエネルギッシュで巨大な隣国のことを。唐突にそんなことが頭にうかんだ。
「ここでいいだろ?」
タクシーの男は車を停めニヤリと笑った。カラータイマーは持ちこたえた。
車を降りると、熱気をふくんだ街の匂いに歓迎された。ようこそS市に、と。(__;)