幸せ話しの裏側

 後期中年者が集まって口にする話題といえば、「健康」「病気」「年金」「孫」といったところだろうか。ときどきこれに、「介護」というネタが加わったりもする。
 なんともうすら寒いラインアップではあるが、唯一、孫ネタだけは明るい未来を感じさせる要素があるので、そこだけは評価できよう。
 とはいえ、孫ネタも自慢話しのひとつであり我が子自慢の延長ともいえ、そのうちされる側が辟易するのは目に見えている。
 少し年長の友人Kさんは、最近幸福の絶頂である。先日も友人仲間で飲んだのだが、彼の、孫の話しを皮切りに次々に繰り出す家族の幸せ話しに、周りの僕たちは辟易を通り越してあきれの境地に陥ってしまった。
 彼の独走を許してしまったこちら側の油断もあるが、なにせ風邪を押して出かけた僕は声はかすれせきは出る、という敵につけ込まれるスキだらけの状態だったのである。
 早くに父親を亡くしたKさんは、長男として母親を助け家族の再興に尽くしてきた。僕のような我が儘に生きてきた者とはちがって、家族をとても大事にし、地道に堅実にトシを重ねてきたのである。
 そんな彼がようやくつかんだ、安定した幸福の境地には素直に拍手を送りたいし、また、友だちとしてとてもうれしく思う。
 でもなぁ、人間は他人の幸せ話しの連続にどこまで耐えられるのだろうか? と、彼の話しを聞きながら、ふと思った。
 いや、「人間」と一般化してはいけない。ここは、僕の心の許容量の問題にすぎないのかもしれない。
 ニュースを見れば(聞けば)、不幸なできごとがほとんどである。逆にいえば、幸せなできごとは人々の関心を得られない、ということだろう。
 創造は逆境や悲しみのなかから生まれてくる、といわれるように、「不幸」は脳を刺激するのだろう。
 Kさんと飲んで以来、さらに体調が悪化した(ような気がする)。まあ、風邪で免疫力が落ちていたのが一番の原因だろうけれどーー。
 僕は、アホでマヌケな話しならたちどころにいくつか提供できる自信はあるが、あいにく孫方面をはじめとする家族の幸せ話しを繰り出すネタはない。
 もっとも、とくべつ不幸に沈んでいるわけでもない。ただ、Kさんのようにはできないな、と思うのである。(^_^;